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NPO釜ヶ崎 現場通信 95号

今年こそ、釜ヶ崎の三位一体(職と食と寝場所)の改革実現を

2006(平成 18)年、戌年。明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

早いもので、1999年に発足した釜ヶ崎支援機構も、今年で丸 7年となる。「石の上にも三年」とよくいわれる。冷たい石でも、その上に三年座り続ければ、少しは暖かくなる、何事も根気よく辛抱すれば必ず成功するということのようだが、その三年の倍の年数がたったわけだ。

さて、この 6年以上の歳月の中で、路上で生活する事を余儀なくされる人や路上死をなくすことを目的とする組織「釜ヶ崎支援機構」で、なにか「成功」といえるようなことがあっただろうか。

就労機会提供事業・輪番就労についていえば、野宿をしなくてすむほどの収入を確保できるまで就労枠が拡大できていない。寝場所についていえば、「臨時緊急避難」のための施設(あいりん臨時緊急夜間避難所)が未だに存続している。食については、釜ヶ崎支援機構は、担っていないが、屋外での炊き出しが続いている状況に変化は見られない。

「継続は力なり」というが、「低め安定」では成功とはいえず、野宿や路上死をやや緩和できても、なくすことはできない。


伝え聞くに、大阪市内野宿生活者
昨年10月現在 3,540人と(西成区内 1,100人とも)

1998年では 8,660人、2003年では 6,603人の数字がある

2005年 10月の数字が妥当かどうか、評価が難しい所だが、仮に 1,000人少なめの数字だとしても 4,500人。1998年の数字からすれば、4,100人の減少、2003年の数字からしても 2,100人の減少ということになる。大阪市内の、野宿生活者の数字が減少していることは動かしがたい事実である。もっとも、いまだに 3,540人もが野宿を余儀なくされているという事実は、減少は減少としても、喜ばしい状況でないことは確かだ。行政が把握した数字であるのだから、行政は責任を持って、今後2年間のうちにゼロにする具体的方策を推進する責任がある。

ところで、減少した要因はなんだろうか。昨年は、世間の景気も若干回復し、釜ヶ崎の仕事も増えた。それが 1つ。また、2003年以降の減少幅が多きいことから、行政の「ホームレス自立支援方策」が効いてきた。それも 1つ。あるいは、大阪市内から追い散らされた、という見方もあるかも知れない。ただ、大きな単位で市内からの移動が著しいという傾向を示す情報は、今のところない。

路上から消えた仲間は、どこへ行ったのだろうか。冥土に旅立った仲間も少なくはないだろう。その他の多数は、就労自立して、路上から畳の上の生活に戻ったということなのだろうか。

ある推論 居宅保護移行=5,390人 就労自立=1,250人 計 6,640人の減

ある大学の先生が、正月休みに一定の根拠のもとに、野宿生活者の減少について計算してみた所、ここ 7年間で 6,640人という数字を出した。1998年の 8,660人から 6,640人を引くと 2,020人が残る。2005年の 3,540人の方が多い。多いのは、新しく野宿生活に加わった人がいるからである、ということ。

その先生は、現在の野宿者の数は 5,000人だろうとして、2,980人が 7年間で増えたとしている。計算上、1年間で約 426人、1日に約 1.2人新しく野宿になっている。減少は、1年間 949人、一日当たり 2.6人ということになる。減少と増加の差は、1日当たり 1.4人。増加と減少が変わらないとすれば、5,000を 1.4で割れば、3,571日、9.8年でゼロになる。3,540人で計算すると、1,520、一日当たり 0.6人の増で、増加と減少の差は 2人。4.8年でゼロとなる。ただ、ここ 2年間、先の 5年間より減少率が高いので、減少数の 6割(3,984)を 2年間で一日当たりの減少を計算すると、5.4となる。純減は 5,000人で計算して 4.2人、3.3年でゼロ。3,540人で計算して 4.8人、2年でゼロ。

ものすごく単純にしていうと、毎日 8人が生活保護申請して受理されれば、来年春には、路上で生活する者はいなくなるということになる。夜間宿所もいらなければ、特掃もいらない、炊き出しもいらなくなる。残るのは自立支援センターだけで充分。

めざせ畳の上、居宅保護。そして、ゆっくり次の職探しを!

もはや、特掃・夜間宿所・炊き出しの三点セットで頑張る時ではない。

なぜなら、特掃・夜間宿所は後 2年、2010年まで持たないから。そして、仲間の路上死を、病院での死を、これ以上知りたくないから。頑張る視点を変えよう!