NPO釜ヶ崎 現場通信 114号
山口宏(特掃責任者)副理事長が急逝 - 6月 25日夕方、心筋梗塞で。享年 63歳
6月 25日夕方、NPO釜ヶ崎の副理事長であり、特掃の責任者である山口宏氏が急逝しました。
25日朝から「あごが痛い」とかかりつけの歯医者に行き、国立病院機構の大阪医療センターに転医して問診中に「胸が痛い」と倒れ、心臓マッサージの甲斐なくこの世を去ってしまいました。25日の午前中までは元気であり、突然の悲報でした。
山口副理事長は、70年代初めから釜ヶ崎で日雇労働者として働き、76年から釜ヶ崎日雇労働組合に加わって以降、93年の反失業連絡会、99年のNPO釜ヶ崎と、日雇労働者と野宿を余儀なくされる仲間の権利のために奮闘してきました。特別清掃にも 94年の開始当初から指導員として先頭に立ち、特別清掃の責任者としてとりまとめをおこなってきました。
葬儀は 6月 27日に南大阪祭典(新今宮駅の北)で、通夜は前日の 26日にご子息が喪主としてとりおこなわれました。大阪府や大阪市などの行政関係者、自立支援センターや西成地域の各団体のみならず、両日ともたくさんの特掃や釜ヶ崎の労働者が参列してくれ、それぞれ 200人ほどの大勢で見送ることができました。
「急なことだったので通夜も葬儀も知らなかった」「行きたかったが入り辛かった」という方は、特掃事務所の中に遺影と祭壇を設けているので、焼香していただければ当人も喜ぶことと思います。口うるさかったが、誰よりも釜ヶ崎の高齢労働者と野宿を余儀なくされている労働者のことを考えていた、山口副理事長の意思を引き継いで、しっかりと特別清掃事業の継続を行っていきたいと思います。
- 古い仲間より追悼文寄稿 -
山口さんのグチグチが聞こえなくなって一週間!
グチグチといわず、一瞬にして逝ってしまった山口おいちゃんを偲ぶ
山口宏さんが亡くなってから、一週間になる。グチが、グッちゃんが、と言われての一生であった。
その通称の「グチ」が、名前の山口のグチに由来するのではなく、「グチグチ言う」の「グチ」であることは、みんな承知のこと。本人もよく認識していたところでもある。
通常、そのような通称で呼ばれる人は、他人からすかれるタイプではなく、なんとなく距離を置かれるタイプと想像されるであろう。亡くなる三日前、夜間宿所の事務所で、夜間宿所の責任者をつかまえて、「ワシャ、特掃のガンやけど、アンタ夜間宿所のガン・・・」とグチグチいっていたそうだから、自他共に認める嫌われ者というところ。
人の評価は、棺桶のふたが閉まって定まる、と言う言葉がある。まさに、山口おいちゃんの棺桶のふたはしまった。山口おいちゃんの棺桶のふたが釘で止められていたそのとき、南大阪祭典の建物周辺には、「会場に入ったら」と声かけしたにもかかわらず、「いや、ここで見送りさせてもらう」という仲間が十人以上はいた。葬儀の最中にも、南大阪祭典の前を二度三度と通る仲間もいた。
山口おいちゃんは、特掃が始まった時からの指導員であるし、それより前の時期は、釜日労の事務所で、あるいは越冬闘争の最中に、医療や労働相談で縁のあった仲間も多かったであろう。そういうときの山口おいちゃんのグチグチは、頼もしい武器として役立ったであろう。
山口おいちゃんのグチグチの日常的な被害者は、毎日現場を共にする指導員たちであったが、仕事現場を段取りするのが行政機関であることから、担当する行政機関の職員も被害者となった。亡くなる数時間前にも、電話で大阪府の担当者にいつもにましてグチグチいっていたという。
山口おいちゃんは、釜ヶ崎支援機構副理事長であった。釜ヶ崎支援機構は、行政と付き合いがあるので、副理事長の葬儀に関係部署からの弔問があっても、通常の社会儀礼として何の不思議もない。しかし、山口おいちゃんの葬儀参列者は、明らかに通常の社交儀礼を越えていた。 グチグチ言われた歴代の担当者が駆けつけた。
山口おいちゃんのしゃべりは、時として、前ふりを省略した、唐突とでも言うべきものであった。話の流れをつかむのにちょっと戸惑った経験を持つ人も多いことであろう。山口おいちゃんにも、間違いはあったであろうし、個人的な好き嫌いもあったであろう。
だが、長年にわたるグチグチが存在しえたのは、そのグチグチが多くの場合私的なものを含まず、状況に即したものであり、大げさに言えば、労働者・大衆の利をまもると言う立場を外れないものであったからだ。だから、グチグチいわれた人の中に、山口宏が残る。行政の側であれ、指導員仲間であれ、闘争をともにした仲間であれ、一緒に何かをした思いが残っているのだと思う。
山口おいちゃんに、派手さはなかった。しゃべるのもそう上手でもなかった。ただひたすら、現場の人であった。大衆の、現実の利を大切にする人であった。 合掌!