いつの時代も
「なんとかなる」を求めて
ひとが集まる 釜ヶ崎
20世紀初頭より、全国から日雇い労働者が集まったまち、釜ヶ崎。やがて景気の悪化とともに野宿生活者が増え、高齢化が進み、今は若い世代も受け入れ先を求めてだどり着く場所になりました。
時代が変わるたびに、ここに来る人も変わる。けれど、困難を抱えた人が「なんとかなる」を求めて、たどり着くまちであることは変わりません。
釜ヶ崎という地域
大阪市西成区にある日本最大の寄せ場
釜ヶ崎(かまがさき)は、大阪市西成区の北東部に位置しています。JR大阪環状線「新今宮」駅、南海電鉄「新今宮」駅、地下鉄堺筋線・御堂筋線「動物園前」駅のいずれからも徒歩圏内にある、大阪ミナミのすぐ南に隣接したまちです。
かつてこの一帯は、西成群今宮村の田畑が広がる農地でした。20世紀に入り、都市化とともに人々が流れ込み、やがて日本最大の「寄せ場(よせば)」となっていきました。
寄せ場とは、日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のことです。釜ヶ崎はその規模において、日本一の寄せ場として知られています。
「釜ヶ崎」と「あいりん地区」という2つの名前
この地域には、2つの呼び名があります。
「釜ヶ崎」は、歴史的にこの一帯で使われてきた地域の通称です。もともと西成群今宮村の字(あざ)のひとつでした。1900年の町名改称で公の名称としては消えましたが、その後も地域に暮らす人々や支援団体は今もこの名前を使い続けています。
一方、「あいりん地区」は、1966年以降に行政が使い始めた名称です。この時期に相次ぐ暴動を受けて、1966年に大阪市・大阪府・大阪府警による「三者連絡協議会」が設置され、この地域の行政上の呼称を「あいりん地区」と定めました。
それでも、釜ヶ崎支援機構は、まちに生きる人々の呼称に寄り添い、釜ヶ崎という名前を大切にして活動しています。


釜ヶ崎のあゆみ
釜ヶ崎の歴史は、日本社会の縮図でもあります。時代ごとに、このまちを必要とした人は変わりました。いつの時代も「なんとかなる」を求めてひとが集まる釜ヶ崎であることに変わりはありません。
20世紀初頭〜1950年代
農地からドヤ街へ
釜ヶ崎は、かつて田畑の広がる農地でした。しかし20世紀に入り、1903年の第五回内国勧業博覧会を機に、現在の日本橋付近にあったスラム街が取り壊され、釜ヶ崎と呼ばれる一帯に流入します。やがて貧困層が集住する木賃宿街となり、1950年代には全国有数のドヤ街(簡易宿泊が集積する町)として知られるようになっていきました。
太平洋戦争で一度は焦土と化したこのまちは、戦後に簡易宿所の町として再出発します。全国から職を求めて上阪する人々の受け皿として、まちの様子は少しずつ変わっていきました。

1960〜70年代
高度経済成長を支えた労働のまち
高度経済成長期、日本は急速に発展しました。その建設現場を支えたのが、釜ヶ崎に集まった日雇い労働者たちです。大阪万博(1970年)の建設ラッシュに向けて、国家的な政策のもと全国から労働者が釜ヶ崎へと集約されました。最盛期には3万とも4万ともいわれる日雇い労働者が、このまちを拠点に各地の現場へ向かっていました。
一方で、暴力団によるピンハネや人権を無視した搾取も横行していました。1961年の第一次暴動を機に行政が動き出し、就労支援や福祉の仕組みが少しずつ整備されていきます。1966年には第五次暴動を契機に「あいりん地区」という名称が定められ、労働・福祉の対策機関が設置されました。
労働者たちも黙っていませんでした。「釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)」の運動では、日雇い労働者が暴力団体と立ち向かい、権利を獲得しました。


1990年代
バブル崩壊と野宿生活者の急増
1991年、バブルが崩壊しました。建設・港湾・製造業の求人が急速に縮み、釜ヶ崎の日雇い労働者たちは真っ先にその影響を受けました。仕事と住まいを同時に失った人々が路上に溢れかえり、1990年代中頃にはあいりん地区だけで1,000人以上の野宿生活者(ホームレス状態にある方)がいたとされます。
国は日雇い労働市場を拡大させておきながら、失業に対するセーフティネットをほとんど整備しませんでした。「住所がないから生活保護は申請できない」「仕事を紹介できない」と窓口で追い返されるケースも相次ぎました。

2000年代
支援の制度化と野宿生活者の減少
1992~2000年にかけて、釜ヶ崎の日雇い労働者・野宿生活者(ホームレス状態にある方)たちが行政に対して野宿闘争を軸に運動を展開し、粘り強く交渉を続けた結果、高齢者特別清掃事業やあいりんシェルターが実現しました。そして、2002年には「ホームレス自立支援法」を獲得し、全国の自治体で支援活動が展開され始めました。
公民が協働してホームレス問題に向き合う体制が整い始め、野宿生活者の数も減少へと向かっていく——そうした転換期にあたる1999年に、釜ヶ崎支援機構も設立されました。

2008〜2012年
リーマンショック、生活保護の急増
2008年のリーマンショックは、不安定な就労に就く人々を直撃しました。年間60〜80万人台あったあいりん地区の日雇い求人は急落し、30万人台で推移するようになります。「派遣切り」に象徴される不安定雇用層のしわ寄せが、釜ヶ崎では特に大きく出ました。
一方、この時期に生活保護の申請がさらに広がりました。厚生労働省の通知により「稼働能力の有無にかかわらず現在地保護」が徹底されるようになり、あいりん地区の生活保護受給世帯は2009年度に9,000世帯を超え、生活保護受給率は約40%に達しました。制度の網がようやく広がり始めた時代でもありました。

2013年〜
西成特区構想の始まり
2013年、橋下徹大阪市長(当時)のもとで「西成特区構想」が始まりました。衛生・環境・治安・経済・福祉・教育など、さまざまな課題が山積する西成区の問題を解消し、大阪市全体の活性化につなげていこうとするプロジェクトです。
地域住民、支援団体など多くの関係者が集まり行政とともに議論を重ねた結果、第一期(2013〜2017年度)では不法投棄・落書き・違法駐輪の減少など環境・治安面の改善について大きな成果を上げました。第二期(2018〜2022年度)では就労機会の創設・地域内における居場所の再構築・子育て世帯の流入促進などへと取り組みが広がりました。
この間、新今宮駅周辺に外国人観光客向けのゲストハウスが急増し、2022年には星野リゾートによる大規模ホテル施設「OMO7大阪」が開業しました。
一方で、地域に長く根ざしてきた日雇い労働者・野宿生活者(ホームレス状態にある方)が、再開発の波に押し出されるリスクも議論になっています。「賑わい」と「社会的包摂」をどう両立させるか、今も問い続けられている問いです。


2020年〜
コロナ禍と、これから
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大で、あいりん地区の日雇い求人は前年度比30%減、統計開始以来初めて20万人を下回り、不安定就労層・不安定居住層を直撃しました。
そんな中、釜ヶ崎支援機構を含む約20団体が「新型コロナ・住まいとくらし緊急サポートプロジェクトOSAKA」を立ち上げ、柔軟で専門的な支援ネットワークが構築されました。この取り組みは「住まいとくらしSOSおおさか」として現在も続いています。
また、2023年度からは西成特区構想の第三期が始まり、「若年層の転入増加」「子育て世帯の転出減少」をめざす取り組みが進んでいます。旧あいりん総合センターの解体工事も2025年度から着手(2026年度中に完了予定)。釜ヶ崎はまた、新しい局面を迎えています。
今も、世代を問わず多くの年代、または外国にルーツを持つ方々が「なんとかなる」を求めてたどり着く場所であることは変わりません。そんな釜ヶ崎にたどり着く人を支えるため、釜ヶ崎支援機構は今日も動いています。


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