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釜ヶ崎における福祉型自立の障壁と課題
by Naoko Kawamura
>>   はじめに  第1章-1  第1章-2  第2章  第3章  第4章  おわりに  文献:DATA 第1章 現状の認識 第1節:新自由主義がもたらしたもの グロ一バリズムが地球上を席捲し、多くの経済学者が国際経済競争を信奉しつつあった97年7月、タイのバーツ崩落を発端に始まった一連の通貨危機は、私たちに、グローバリズムがその本質として孕む不確実性と危険性をまざまざと見せつけた。それから3年、私たちはさまざまな形でグローバリズムや自由競争至上主義がもたらす弊害を目にしてきた。バブル崩壊後の不況がこれほどまでに長引く要因として、国際競争に打ち勝つための、企業の過度の合理化、それに伴う賃金カットやリストラ、不安定なグローバル経済時代を見越して低迷する消費性向を見逃すことはできない。いまや私たちは、過度の国際経済競争が、私たちの社会生活に、新しい利益をもたらすだろうという幻想は、持っていない。しかしその一方で、ある価値観、競争至上主義とともに、互いに補強しあう形で発達してきた価値観からは、逃れられずにいるのではないだろうか。 戦後、西側諸国の多くで採用された経済政策は、ケインズ主義の普及(完全雇用政策の採用)と社会保障理念の確立・発展に象徴される、福祉国家的なものであった。しかし、オイルショック以降、経済の低迷によって、財政の悪化などの諸問題が噴出するに至り、新自由主義へと移行していく。それは、自由市場の一元体制の選択であり、新自由主義が人々に対して求めた精神こそ「自己責任」の自覚であった。自己責任と表裏一体のものとして個人的自由があり、競争原理、効率性が重視され、個人を単位とする自由競争的市場こそが効率性を達成し、経済を復興させる。市場では経済的競争力の回復が個人の自由という理念の実現を意味し、同時に、この理念が経済の達成を支える1。理念と実際の組み合わせこそが、新自由主義であり、理念と現実は互いに正当化しあうことで、強力なイデオロギーをつくってきた。日本もこの流れの例外ではなく、新自由主義の理念に支えられ、イギリスのサッチャー、アメリカのレーガンの「小さな政府」と同様、中曽根政権は、完全雇用政策・社会保障政策を縮小する「行政改革」を掲げた。 ここで登場した「自己責任」という価値観は、弱者への視線の変容や、国家が保障するべき権利(憲法で保障された権利)を持つことのできない状態にある人々のスティグマの助長、権利獲得に対する他者の不理解、彼ら自身の権利要求への意志を心理的に遠ざける、といった負の効果をもたらした。人々の、野宿者に対する「怠けものだから仕方がない」「福祉で保護されないのはよほど本人に問題があるからだ」「好きで野宿している」といった態度は、いうまでもなく「自己責任」の価値観に基づいたものだ。そして自由競争市場が、グ回一バル化による競争の過熱化によって、その本質的な欠点を露呈しているにも関わらず、この価値観は、人々の社会的倫理観の基礎に浸透してしまったために、問い直されずにいるのである。しかし、自由競争市場という一元的価値に基づく経済社会体制が破綻しつつある現在、「自己責任」という価値観を正当化するものは、本当は何もないのである。 第2節:釜ヶ崎(あいりん地区) 大阪市は、広報紙「大阪市政だより」(1999年5月号No.592)に、「野宿生活者問題について」と題した一文を掲げ、その中で「近年、景気の低迷による企業倒産や求人の減少、高齢化した日雇労働者の雇用の制約等で生活困窮となり、野宿を余儀なくされた野宿生活者の数が市内全域で増加しています。…従来から野宿生活者が多かったあいりん地区とその周辺をはじめ、市内全域に野宿生活者が増えてきています。日雇労働者の野宿生活者が多いことから、野宿生活者対策とあいりん対策とは密接なかかわりをもっています。」と、野宿者増加の原因について、基本的な考え方を示している(2)。 「あいりん地区(i)」は、大阪市西成区の東北端に位置レ花園北1・2丁目、萩之茶屋1〜3丁目、太子1・2丁目、山王1〜3丁目、天下茶屋北1丁目からなる0.62平方キロメートノレの狭い地区を指すもので、西成区全体の8.4%を占めているに過ぎない。その中に約3万人の人々が居住し、その3分の2の21,OOO人が日雇労働者という、日本随一の日雇労働市場を形成している(3)。 全国で3万人近くに達するといわれる野宿者のうち、大阪市には約1万2,O00人が生活するといわれ、なかでも、釜ヶ崎とその周辺に集中している。 ● 表:全国の野宿者数 / 表:1998年大阪市調査による、市内各区の分布状況 なぜ、釜ヶ崎に野宿者が多いのか。野宿者を生み出す社会構造について、その歴史的推移から考察的推移から考察する。 1日雇労働市場としての釜ヶ崎の形成 釜ヶ崎において、男性単身労働者の極限的な増加が生じ、人口が一万人台を突破したのは、高度経済成長期である。日本はこの時期、重化学工業への産業構造の転換を図るために、建設土木・港湾労働などに急激な需要増を持ち、そうした底辺の労働力に流動性を求めていた。年平均10%台という奇跡的な実質成長率を達成できたのは、民間設備投資の増加、護送船団方式や日銀による通貨の追加供給・低金利政策などの、金融面での資金調達支援とともに、労働需要の急増に対して、若年労働力の供給を充足できたためである。農業基本法(61年交付)等による農村労働力の流動化、エネルギー革命による石炭産業の斜陽化をうけた失業者の増大が、その供給源となったが、そうした若年労働力をプールしておく場所として、釜ヶ崎が大きな役割を担ったのである。また、この時期、行政施策によって、世帯持ち労働者を主な対象として、常用化及び地区外での住宅供給が図られた4ことにより、単身男性労働者の割合は増加した。以後、釜ヶ崎では、労働力の再生産能力を失っていく。 1970年、会場建設費2,OOO億円、関連建設事業費9,000億円を投じて行われた、日本万国博覧会に要する労働需要のほとんどは、釜ヶ崎労働市場を通じて供給され、さらに大阪府労働部は、万博関連工事を期限内に完成させるために、全国の職安に協力を要請して、労働力を大阪へ呼び込んだ。 しかし、高度経済成長の終焉は、釜ヶ崎労働市場に、決定的な変化を与える。70年代の2度のオイル・ショックと円高の影響をうけた、造船・鉄鋼を中心とする重厚長大型産業から電子・情報産業など軽薄短小型産業への、産業構造の転換は、既往の釜ヶ崎労働者のなかに、多数の失業者を生み出した。さらに、産業再編による構造不況業種からの労働力移動は、高度成長期とは異なり、主に高年齢層によってなされた。これは、高度成長期に流入した労働者の高齢化とあいまって、釜ヶ崎における高齢化を促進することになった。 また、高度経済成長の過程での荷役作業の機械化と港湾労働法の制定は、日雇労働者を仲士仕事や工場内作業から排除し、その就労職種を建設・土木に限定させていく。 ● 年度別産業別日雇い求人数 建設土木業は、その多くを公共事業に依存しているため、その求人は公共事業の動向に規定される。それは、予算の年度内執行あるいは未執行などの事情から、4月〜7月、12月末〜1月は不況、2月〜3月と梅雨明け〜12月にかけては好況になるという、釜ヶ崎における、季節による求人量の変動を確立させた(5)。 日本では戦後、景気調整策として公共投資を重視する政策が、一貫してとられてきた。就労人口に占める建設・土木産業従事者の比率は、先進国としては類をみない高いものとなっている(ii)(3章で詳述)。公共投資の性質である、季節による短期的な景気変動に見合った流動的な労働力需要を満たすために、釜ヶ崎が果たした、労働経済の安全弁的役割を見逃すことはできない。総務庁「労働力調査」によれば、99年度の建設業の就業員削減において、常雇の削減率0.6%に対して、日雇労働者の削減率は3.8%であった。GDPの1割を占める巨大な建設産業は、資本金1億円未満の、経営基盤の安定しない中小業者が99%を占めているが、バブル崩壊後の不況に際しても、建設市場は、人員削減のリスクを日雇労働市場に負担させることで、安定を保っている。 労働施策は、明らかに労働経済の下支えとしての役割を釜ヶ崎に求めており(iii)、失業者の釜ヶ崎への誘因として機能した。つまり、この一大目雇労働市場一それは原理的に、日カ失業の危険にさらされる不安定な労働市場である一を形成したのは、他でもなく、行政による経済・労働施策なのである。 2日雇労働へ至る道 では、なぜ日雇労働者は、日々雇用・日々失業という不安定な日雇労働を「選択」したのであろうか。「『釜ヶ崎歴史と現在』釜ヶ崎資料センター編p155-162」の中で、牛草英晴氏は、1986〜87年に釜ヶ崎夜間学校が実施した、釜ヶ崎労働者職歴調査から、釜ヶ崎労働者の出身階層(生家の職業)と学歴・初職が、社会的にみれば中・下層に集中、特に下層に傾斜しており、彼らには、`「自由競争の社会」の幻想とはうらはらに(原文ママ)'、自己選択の幅が少なかったという結論を導いている。 釜ヶ崎支援機構Vにおける福祉相談においても、生家の職業が農林漁業であった者が最も多く32.6%、次いで左官・土工・炭坑夫などが16.3%、零細職人(竹細工等)が8.1%、その他工員7.O%である。学歴は、中学校卒業者が最も多く43.O%、小学校中退・卒業者が22,0%、高等小学校、中学校中退・卒業者を合わせた中学校卒業までの割合は、全俸の約8割に達する。 また、初職が左官・とび職の者、土工、鉄筋工など、建設業であった者は全体の31.蜥であり、次にその他家業手伝い、工員などが続く。いわゆるホワイト・カラーであった者は、0.3%に過ぎない(v)。下のグラフが示すように、建設業は、他産業への転職が最も困難な業種である。 ● グラフ:産業間労働移動の状況 建設業種内の転職は、回を重ねるにつれ、次第に常雇から日雇への選択を余儀在く、させていったと考察することができる。 3日雇労働から野宿生活へ 日雇労働が、日々失業をもたらす労働形態であることは、先に述べた。日雇労働者に仕事がなくなった時、保障をもたない彼らが野宿へ至るという道すじは、想像に難くない。しかし、本当に彼らは何の保障も持っていないのか二また、こうした、常に生存権が脅かされかねない労働市場に対して、それをつくりあげた行政は、どのような施策を講じてきたのだろうか。 釜ヶ崎に対して、行政が本格的な施策を投じたのは、第一次「暴動」を契機としてであり、こ二において、労働者の就労問題は国と大阪府が、医療・福祉については大阪市が分担するという枠組みがつくられた。1970年に、西成労働福祉センター(62年開設)・あいりん労働公共職業安定所・大阪社会医療センターからなる、現在の「あいりん総合センター」が開設され、71年には、釜ヶ崎内の単身労働者を対象にした民生行政の拠点として、大阪市立更正相談所が設置された(6)。 あいりん職安は、職業紹介をしない特殊な職業安定所である。釜ヶ崎労働者にとって、その存在意義は、専ら「日雇労働求職者給付金」(通称アブレ手当)の支給にある。そのしくみは、雇用保険被保険者手帳(通称白手帳)の交付を受け、その手帳に、失業の日に属する直前の2ヶ月間で通算して26枚以上の印紙が貼付されているときに、印紙の種類・枚数により規定された給付金が、13〜17日間支給されるというものである。給付金の日額は、第一級7500円、第二級6200円、第三級4100円7。釜ヶ崎労働者にとって、アブレ手当は重要な収入源であるため、日雇の日給以上に、その就労日数が、一月の収入を規定することになる。 しかし、バブル後の長引く不況や、パートタイマーやフリーターという流動的オ真雇用形態の現出は、資本に対して、釜ヶ崎労働市場から流動的な労働力を確保する必要性を失わせた。釜ヶ崎労働者が、一月平均13目の仕事を確保することは難しくなっており、センター一階寄り場で雇用される求人年齢は、現在、50歳を切るといわれる。99年度あいりん職安の業務概要によれば、登録目雇労働者のうち、50歳以上が占める割合は76.9%で、平均年齢は54.4歳である。有効求職者の約40%Rが、月13日の就労機会を得る二とができず、アブレ手当を得ていない。これは、釜ヶ崎において「日雇労働求職者給付金」という雇用保険制度が、社会保障として機能していないことを物語っている。 財団法人西成労働福祉センターは、大阪府労働部の外郭団体であり、センター一階寄り場で行われている「相対方式(Vi)」とよばれる求人活動を行なう業者(下請・孫請・曾孫請企業)の登録認定を行なうとともに、わずかながら、窓口での一斉公開求人を行なっている。 大阪社会医療センターは、大阪市民生局の外郭団体で、無料低額診療事業を行なっており、実質的に、釜ヶ崎における日雇労働者・野宿労働者の医療問題を一手に担う医療機関である。1998年度の外来患者のうち、生活保護被保護者は47.6%、また、減免措置をうけている患者は4割にのぼる。外来患者の平均年齢は、一58.4歳で、高齢化と不況による失業で、健康保険・労災適用者が減少している。98年度の診療減免金額は、約2億1,000万円で、88年度に比べると約2倍に増加した。また、内科の外来患者が急増しているが、この中で、「施設入所」「生活保護」「ケアセンター」等、福祉目的で受診する患者が占める割合が多く(9)、野宿者の増加による影響と考えられる。 大阪市立更正相談所は、釜ヶ崎の住居のない労働者を対象とする生活保護実施機関である。また、生活保護相談以外に、法外援助施策の一環として、生活相談、金銭貸し付け等を行うとともに、通称「あいりん銀行」の貯蓄あっせん事業を実施している。市更相は、医療診断書に基づき疾病が認められた者に対してのみ保護を実施し、その保護は専ら施設入所・入院という、収容主義の生活保護運用を行っている(10)。 以上、釜ヶ崎に対する労働・民生施策の概略をみてきた。 日雇労働者の失業対策として存在する「求職者給付金」を得るには、「社会保険」という制度が持つ性質上、一定の就労日数を必要とするが、この制度下では、最も困窮な状態にある、就労機会に恵まれない者を救う二とができなレ、。こうした人々を救う最後のセイフティ・ネットが生活保護であるが、市更相による生活保護法の運用は、後述するように、適正とは言い難い状態にある。 つまり、釜ヶ崎における野宿者の現出は、不適切な労働・民生施策の中で、日雇労働市場が本質的に抱えてきた問題であることが分かる。現在の膨大な野宿者数の背後には、バブル崩壊後の不況という経済的な要因とともに、釜ヶ崎社会の構造的な要因(労働力の再生産構造を持たない釜ヶ崎における高齢化とそれに伴う疾病・障害者の増加、そうした労働力を吸収できない日雇労働市場の性格)がある。それは釜ヶ崎労働市場の形成過程で予想できた事態であり、その形成を促した行政が、現在までこの状況を放置していることは、許されることではない。  続き(第3節)へ |