第2章 野宿生活者の就労ニーズと求人(雇用)側の対応意識
2-1.野宿生活者の就労ニーズ
聞き取り調査の期間、場所下表のとおり(表2-1、2-2)で、平成13年2 月中旬から3 月中旬にかけて15日間(表1.1参照)で行った。
表2-1.調査日程 表2-2.調査場所
なお、今回の調査は質的側面にウエイトをおいた調査であり、数値データを用い、図表を作成している部分もあるが、限られたサンプル数での限界があり、必ずしも野宿生活者全体の傾向を示すものではない。
今回聞き取りに協力してくれた人々は、35歳から69歳まで(平均年齢56.5歳)で、50歳代から60歳代の占める割合が高くなっている。1999年度大阪市が実施した野宿生活者(ホームレス)聞き取り調査から得られた結果と比較して、40歳以上50歳未満の年齢層が少なく、60歳以上70歳未満の年齢層が多い。
また、性別については、今回の聞き取り調査では全員が男性であった。
図2-1.野宿生活者の年齢分布(1999年度大阪市調査と2000年度大阪府就労調査)
(出身地)
出身地については、地方別で見ると近畿地方(32.0%)、九州地方(28.0%)の割合が高く、都道府県レベルで見ると大阪府(28.0%)が飛び抜けて高くなっている。近畿以西(西日本)の割合が高くなっている。
住民票の所在地について見てみると、不明・無回答も含めた調査協力者50人のちょうど半数が大阪府内となっており、府内25人中17人が大阪市と回答している。
(直前居住地)
野宿を始める直前に大阪府内で生活していた人はさらに多く、大阪府内と回答したもの35人のうち、大阪市と回答したものが30人いた。
直前居住地が大阪府でない場所を回答している5人について、「どのような理由で大阪にきたのか」をみると、4人は大阪に仕事を探しに来ており、1人は大阪以外の場所で野宿をしていて大阪に流れついたという事例であった。
(野宿形態)
居住形態をみると、今回話を聞かせてもらった半数以上がテントで生活していることがわかる。
テントを張っている事例としては、下記のようなものが挙げられる。
●会社が倒産、失業し、半年ほど仕事を探したりしながらアパートに住んでいたが、高齢のため仕事が見つからず、貯金があるうちにアパートを出て公園にテントを張った。(Case 20)
●1ヶ月半ほど地下街で寝起きした後、周りの野宿者から聞いてテントを張って野宿を始め、同時にアルミ缶回収、自炊も始める。(Case 21)
●テントを張っても厳しい生活であることは変わらず、「気楽と言う人は多いけどやっぱり、精神的に疲れるね」とも言う。(Case 19)
(野宿開始時期)
野宿開始時期について見てみると、ここ2,3年以内に野宿を余儀なくされるような状況に陥った事例が半数以上だった。特に、1999年、1998年になって野宿をはじめたと答えている人が多い
図2-2.野宿開始時期
A職歴
(全体の傾向)
調査対象となった野宿生活者について、産業・従業上の地位・就業期間を見るとことにする。聞き取りに協力してくれた野宿生活者50人の、「初職(学校を卒業して最初に就いた仕事)」、「最長職(主に従事していた仕事) 」、「直前職(野宿生活をはじめる直前に就いていた仕事)」についてみると、初職では製造業やその他の産業(卸売・小売り業,飲食店、サービス業、農業、鉱業)の占める割合が高く、最長職、直前職では建設業の占める割合が高くなっている。
従業上の地位について見てみると、初職では「常雇い」の割合が高くなっているが、最長職、直前職では「臨時・日雇」の割合が高くなっている。
最長職の就業期間については、「10年未満」の割合は約1割程度で、20年程度と答えている割合が高かった。最低で1年、最高で38年、平均して19年程度、「同じ種類」の仕事に就いてきたという結果が得られた。
また、「釜ヶ崎での就労経験」では、約6割の人が、釜ヶ崎で働いたことがあると答えている。
今回の聞き取り調査では、大阪市内で野宿している人の約71%が、また、大阪市外で野宿している人の約36%が、釜ヶ崎で働いたことがあると答えた。釜ヶ崎での就労経験は、明らかに大阪市内の割合が高くなっていることがわかる。地理的に考えると当然の結果だろう。
だが、大阪市外で釜ヶ崎で働いた経験がないと答えた人の大半も、最終職では、臨時もしくは日雇で建設業に従事していたという結果が得られている。つまりは、釜ヶ崎を経由したかどうかという違いはあるものの、建設業の不安定な就労形態にあった人たちだったのではないだろうか。
もちろん、今回の調査は聞き取った人数が50人であること、サンプリングを行っていないことから、今回の調査結果が大阪府内の野宿生活者の傾向ということはできない。
次ぎに聞き取りを行った調査対象者の職歴の典型例と思われるところを紹介する。
(職歴の典型事例)
■建設業
1957 年大阪で生まれる。
高校をでて、仮枠大工をしていた親父の紹介で町屋の左官の見習いをすることになった。保険はかけてくれていたかもしれないがわからない。上下関係がきびしく「こて」を持つのには一年以上かかる。が、一年になるかならないかぐらいでやめた。
小さかったとき犬好きだった彼を石川で乳牛の牧場をやっていたおばさんが「動物好きやったからこっちに来いさい」と誘い、彼はそこで1,2 年働いた。牧場の朝は早く、乳を搾るのはやはり体力がいる。力仕事だ。いろいろな事情で牧場の仕事を辞める。
そして、二十歳のときに釜ヶ崎へやってきた。現在、43 歳なので、日雇をはじめて23 年。仕事は主に型枠、解体業、あと土木(などであった)。
今年2001年になってえべっさん(十日戎)以降仕事がでている。えべっさんまでは仕事がなかった。仕事がでたといっても賃金はだいたい1万1500円。9000円のところもあった。このあいだは1日1万円で飯代3800円、そのほか3000円とられて、一日3200円しか残らないところがあった。
この日も姫路の高速道路の橋桁工事に行ったものの残業が多く、朝出に残業をしても時間外がつかないので出てきたところだった。
最近は本当にひどい場所が増え、二級の印紙を貼るところもある。
仕事には平成9年(1997)から就けなくなった。きついときは拾い食いもした。日雇労働者は「スクラップみたいなもんやからな、必要なときだけ呼ばれる」などといっていた。(Case 34)
1960年(18歳)で大阪の高校を卒業し、高速道路の防音壁を張る仕事を1969,70年(27,8 歳)まで約10年間した。この仕事は、保険とか年金などは一切なかった。この仕事を辞めた理由として「そう。あのころは若かったし、給料もよかったからな。金につられて、基礎工事関係の仕事に移った」と語る。基礎工事関係の仕事は、一ヶ所の会社につとめるというものではなく、数人でグループ組んで仕事が入ればその現場の飯場にいって、というような請負仕事をしていた。その仕事の半分以上が公共工事であった。「橋も架けにいったし、山留めにもいったし、地下55メートルまで手掘りで穴掘ったり、土砂崩れした山の斜面を土留めしたりな。想像もつかんやろ。えらい仕事やぞ。危険な仕事した。」賃金は最低でも1日3万円はもらえた。しかし景気が悪くなるにつれ、仕事が減少し、とうとう2年半前(1998年夏)に、それまで住んでいたアパートを家賃払えないという理由で出た。その後西成に行ったが、仕事が全くなくて、1年半前(1999年)くらいからここで野宿している。(Case 24)
昭和14年生まれ、61歳。瀬戸内海の島で生まれる。身内(両親)はいない。
小さきときに施設に預けられて、そこから養子にいったけど、そこの母親も早くに亡くなった。それから結婚もしてへんし、天涯孤独や。
中学校卒業してから集団就職でこっちに来てからはずっと大阪かな。
建設関係の仕事で、大阪の4,5ヶ所の工務店で働いていた。一番長いところで、20年くらいかな。住んでた所は、賄いはなかったけど、会社の寮だったよ。朝はどっか喫茶店でモーニング食べて、弁当どっかで買って行って、夜御飯食べて、お酒のんで。
「はつり」の仕事をしていた。仕事が一番調子よかった時は、1万7千円から2万円くらいはあったんじゃないかな。それでも、食事してお酒のんだらあんまりあまらなかったな。結構力のいる仕事で。2年半前に病気(心筋梗塞)で倒れるまでは体力には自身があったんやけどな。
最後は大阪市内の工務店で10年間くらい勤めていた。その工務店のおやっさんは、自分に身よりがいないとうこともわかってて、雇ってくれとったんや。だから、病院に半年入ったときも良くしてくれた。けど会社が倒産してしもたら仕方ないわな。
病院から退院してきて、釜ヶ崎にはじめて仕事を探しにきたんや。でも来てびっくりした。人は多いし、仕事はないし。で、釜ヶ崎で野宿を始めた。
現在、社会医療センターで薬(ニトロ)をもらいながら、1週間だけNPOからのガードマンの仕事があたったので、仕事をしている。(Case 37)
1936年、大阪府に生まれる。母親が40歳のときに生まれた。「生まれたんもこの(野宿している場所の)近所。学校も近所の学校やし、まあずっとこの近所やね。ずっと大阪。でも小学校1年か2年の時、母親と一緒に、富山に疎開したんよ。富山に母親の実家があったから。勉強なんて全然せんよ、そんなん。イモ掘ったりそんなんばっかりしとったから」。敗戦後、疎開先から戻ってきて中学校に通う。「中学校も勉強なんかほんま、それどころじゃないって時代やったからね。親についてサツマイモやら食べモン集めに汽車乗っていったり、そんな時代やったからね。高校なんか行こうなんていう状態じゃなかったからね。周りの友達もそんな感じやったんちゃうかなあ。高校なんか行かんでも普通っていう時代やったからね。今とは違うよ。親も学校より手に職つけてって感じやったからね」。
1951年(15歳)、中学校を卒業後、すぐに親の薦めで近くの鉄工所で旋盤工として働き始める。10人程度の規模の鉄工所だった。電線の束を束ねる金具や消火栓の口の金具を作っていた。
「鉄工所で働きだしたんよ、中学出てすぐ。そこがまた、親方がほんますぐ殴るような人でなあ。ほんますぐ殴られた。もう無茶苦茶なことさせられたわ。ほんま恐ろしい親方でなあ。今とはちゃうで。技術も教えてなんかくれへんからなあ。殴られて覚えろって感じで。親呼び出されて怒られたこともあったわ。ほんま今とはちゃうねんて。給料はもらっとったけどな、一応月払いで。全部、親に渡すんよ、親方が。...保険とか?そんなんないって。そらその時でも大学出て大会社で働いとったような人らはそんなんあったやろうけど、ワシらそんなんないって。親方が何人か雇って、そやなあ10人くらいかなあ、そんな小こい工場やからなあ。もう一切なし」。1年するかしないかでA氏はこの鉄工所を辞める。「なんで辞めたって、辞めさせられたんよ、親に。親がもっと給料ええ会社あるからそっちに移れってなって。そんな感じやったよ」。
次に就いたのは「A便箋」という会社で工員をしていた。
その後も幾つかの仕事を転々とする。保険などのある仕事場ではなかった。
1966年(30歳)頃、建設業で働き始める。主にトビの仕事に就いていた。ある一人の親方の所で日払いの仕事に就いてきた。ここでも保険などは一切なかった。「そやなあええ時は一日2万くらい稼いどったかなあ。そらサラリーマンなんかよりずっと給料良かったで。年金なんか払ってなかった。何でってな、稼ぎ良かったもん。年金なんかかけんでも大したことないわーって感じやったからなあ」。
30年以上建設業の日雇を続けてきたが、釜ヶ崎から仕事に行ったことはない。
歳を取ってくると大手の会社で働く時には歳をごまかすようになる。「大手はなあ、歳ではねるのよ。歳取ったモンを雇っとってケガされたら、そんな歳いってるモンにトビみたいな危ない仕事さす方も悪いいうことになるからなあ。危ないいうて使うてくれへんのよ。大手は最初に歳なんぼでとかなあ、健康診断とかで全部取られるからなあ。大手の時は歳ごまかしとったよ。小さいなあ、親方が一人でやっとるような所やったらそんなんは何にもないねんけどな」。
1994年(58歳)頃から、親方について仕事をするようになる。大きな倉庫の屋根や壁を取り付ける板金の仕事である。「親方のとこから仕事行ってたんよ。一緒に働いてたんはなあ、そやなあ9人かそこらやな。出張もよう行ったで。民宿泊まってなあ、和歌山の。給料は日払いや。5年くらい働いとったかなあ」。
しかし、1997年(61歳)頃から徐々に景気が悪くなっていく。「そうやなあそれくらいから景気悪なっていって、仕事減っていったなあ。そら景気悪なったら倉庫なんか建てへんやん。仕事ないから人数も減らしていってなあ。ほんだら今度は人数減ったら大きい仕事は取れへんやん。そんなんで悪い方悪い方いってもたんよなあ。ほんでまあ、大阪市内にアパート借りとってんけど家賃払われへんようなってまあ結局野宿するようになったわけよ」。仕事が減り、1999年7月(63歳)野宿するに至る。(Case 47)
1938年群馬県に生まれる。中学校を卒業後、地元の鉄工所で働きはじめた。当時そういった工場(その工場は150人ほどの規模であった)では新卒は50人ほどの募集を行っていたが、実際は5〜10人しか集まらなかった。それは、賃金が日当70円と安かったためではないかと理由を言う。自身も2年で辞めてしまった。その後就職した同じ群馬の製造業関係の大手の企業では、日当350円の収入であり10年以上続けたが、個人的に失敗をしたことで退社した。退職金や保険といったものは一切なかった。
1966年(28歳)から、季節工として車の生産会社、家電製品製造メーカーなどでそれぞれ半年から1年位、合計で5年ほど働いていたが、万博のあった1970年頃からは完全に日雇いとして釜ヶ崎から仕事に行き出した。20年以上同じ釜ヶ崎のアパートで暮らしていたが、次第に飯場やドヤでの生活に移行してゆく。そして、1998年(60年)夏より、仕事がなくなったため「暇なって」来たこの場所でテントを張って野宿生活をはじめた。(Case 12)
1950年大阪市に生まれる。大阪で育ち、1968年(18歳)に大阪の高校を卒業する。高校卒業後、1年くらいの間は東京でブラブラして暮らしていた。
1969年(19歳)、大阪に戻り印刷会社に印刷工として就職(常雇)する。印刷工として腕を磨く。その会社で職人としての腕を認められ見込まれて、社長に独立を勧められる。独立資金も社長が用立ててくれたので就職から6年後の1975年、25歳で独立する。大阪府で印刷会社を経営するようになる。化粧品の瓶などにプラスティックで印刷する会社で、独立当時はそのような印刷をできる会社が他にはなく、非常に儲かっていた。会社独立とほぼ同時に付き合っていた女性と結婚する。80年代までは会社の景気も良く、工場は8人の従業員を雇い、順調であった。
独立当初は、印刷の品質について取引先もうるさくなかったが、徐々に品質について厳しくなるようになり、品質が悪ければ返品されるようになる。返品の場合、印刷代がもらえないだけではなく、印刷した瓶も買い取らなければならないので、赤字が出てくるようになる。80年代終わりから90年代になると経営もやや厳しくなってきたようだ。しかし、印刷関係の世界では「『印刷のA』と言えば超有名やった」というぐらい(自分としては)腕には自信があった。
厳しいながらも経営を続けていた1994年、台風で工場内が水浸しになる。工場内には、ドイツ製化粧品の瓶に印刷をし終えたものが山積みにしてあった。台風で進入してきた水はその印刷をボロボロにしてしまった。瓶代の代金も請求されることになり、取引先に1000万円の借金を背負うことになる。
1000万円の借金が直接の契機となり19年連れ添った妻と離婚する。妻は息子を連れ、妻の実家のある愛媛に出ていく。1994年、19年続けた工場が倒産する。工場兼住居も引き払い、残す現金は50万円のみになっていた。8人の従業員に払う退職金ももはやない。「退職金は払えん。その代わりにみんなで旅行に行こう」。退職金代わりにその50万円で従業員を秋吉台への旅行に連れていき、完全にスッカラカンになる。
金融屋からの借金ではなかったので、取り立てに追われることはなかったが、大阪にはいられなくなり、倒産後すぐに和歌山に行き、印刷関係の仕事のツテでB印刷会社に印刷工として就職する。漆器に模様をスクリーン印刷する会社である。印刷用の塗料の調色ができたので、その社長には重宝がられた。和歌山ではアパートを借り生活していた。仕事場での人間関係が理由で、社長には引き留められたが、約1年間勤めた工場を退社する。1996年の冬のことである。
和歌山の工場を退職すると大阪に戻ってくる。帰ってきてすぐ、お酒を大量に飲んで酔っぱらって道で寝てしまっている内に、財布から何までを取られてしまう。持ち金がスッカラカンになってしまい野宿が余儀なくなる。大阪に帰ってきてすぐに、現在とは別の場所でテントも建てずに初野宿をする。真冬のことであったので、寒さに「ふるえもってねてた」。途方に暮れ、現在の場所に行ってみると、長老のような男性に声を掛けられ、その男性がご飯をおごってくれた。「うれしくて、涙出た」そうだ。テントに泊めてもらった次の日の朝、その男性に、「今日から米と酒を調達してこい」と言われ、あわててその場を後にする。その後、長年生活していた大阪府下のこの場所で野宿するようになる。(Case 48)
鹿児島出身。64歳。
高校を出た後、タクシー会社に勤めていた。タクシーの運転手を約30年。計6カ所。大阪市内のタクシー会社だった。タクシーもトラックの会社も保険、年金をかけてくれていた。タクシーもトラックもすべて歩合制だった。一日一万円稼いでいた。最初についたAタクシー(会社)には600台ぐらいあった。このタクシー会社は厳しい。車のにおいのチェックなどをする。しかしこのタクシー会社で働いていた経験があればどのタクシー会社でも雇ってくれるほど。
野宿をする前はトラックの運転手。トラックは10トントラックに乗っていた。トラックは24時間走りどおしで仕事きつい。トラックの会社には60-70台あった。トラックの運転手を約20年、2、3カ所。
定年前に配偶者が亡くなり仕事を辞める。退職金に800万円もらったが、2、3ヶ月で使い切ってしまう。その後アパートをひきはらい、野宿する。現在野宿して3年になる。
子どもが娘2人に一番下に男の子がいるがどれも結婚し、頼ることができない。妹夫婦が大阪にいたので彼らを頼って大阪に出てきた。
現在でも免許の更新はいっている。(Case 25 )
年齢は1943年生まれの57歳。東京生まれの東京育ち。
高校を卒業してから、メラニン樹脂製の板を作っていた。結構大きな工場のようでプラスチック関係のもの、バケツなどを他の課ではつくっていた。ここでは常雇いで3年間働いた。各保険もあったようだが、退職後失業保険をもらうことはしなかった。失業保険などに頼りたくはないようだ。
そしてこの会社を辞めた後すぐにヘルニアになる。病院をいくつもいったが治らないと言われ、手術することになる。手術をしたが、そのヘルニアの後遺症でいまでも腰を曲げる仕事をすると足がはれてしまう。
ヘルニアの手術後激しい仕事はできないので、セールスの仕事を始める。そこで知り合った同僚と24歳のときに大阪へ行こうということになり、二人で大阪へやってきたが、一人はやっぱり東京のほうがいいということで帰った。
そして彼は何か手に職をつけるためにパン屋で勤める。当時はパン屋がはやっていたがバブル崩壊ぐらいのときにパン屋がはやらなくなってきてやめざるえなくなってパン屋をやめる。
その後仕事がないので、ホテルの清掃を主にしていく。梅田などいろいろなホテルを転々としたが、6ヶ月ほど働くとヘルニアの後遺症でくるぶしあたりがはれてくるので1ヶ月ほどやすまないといけなくなる。迷惑をかけるわけにいかないと彼はそのたびに仕事をやめる。最後の勤め先ではなおったらまたお願いと言われていたのに治って、行くともういらないと言われた。30件ぐらいまわったがどこも採用してくれず、15、6万もって野宿することにした。それでも一日千円ほど最初はかけていたのですぐにお金はつきた。おととしの夏のことだった。
ホテルの清掃の仕事もいまでは年齢制限が厳しくなっているという。むかしはむしろ年寄りの仕事であったようで、清掃の仕事をやり始めたころ面接に行くと若いのにと言われたこともあるという。いまでは50歳未満でないと雇ってくれないという。ある時面接にいくと一人の募集に50人面接にきたという。若い人のあいだではまだまだ仕事があるようだが、年寄りのところにはないことをしきりに言っていた。(Case 3)
1951年生まれの49歳、出身は大阪府。
高校を卒業して大阪堺市にある大手の工業関係の会社に就職する。
ここは自転車の部品を作っている会社で競輪の自転車も作っていた。競輪用の自転車は選手用に設計され注文通りにつくらなくてはならないので技術がいる。工場で自転車のギヤなどを作っていた。NC旋盤やプライスやロボットを使っていた。板から切り出すときに先がダイヤモンドのものできりだすが、それは最小のもので5mmなのでそれより細かくきりだしたいときはその先を水が噴射されるものに付け替える。水のものだとなによりも柔軟に扱える。特に熱が少ないので変形が少ない。また自分で図面も書いていた。
33歳のときに自分の腕が認められて、埼玉県にある大手の製造関係の会社に出向でいくことになった。このとき係長。ここで5年ほど働いたが喧嘩をしてタンカをきって会社を辞める。辞めた理由は「気が短くてな」。
この会社を辞めた後、東京へ行き、さまざまな仕事を転々とする。その後、京都へ行き、太秦の映画村で小道具を作る仕事につくが、おもしろくなく、数ヶ月でやめてそこでできた知り合いに紹介されて京都の旅館に勤めることになる。旅館(客商売)なので身元保証人は二人必要だった。そこではしばらくしてフロントをまかせられた。フロントの仕事は、早朝までで、朝しか休むことはできなかった。そこで4年間勤めたあと、大阪へでてきた。
大阪ではパチンコ屋に勤めたが、フロアではなくて、事務をまかされていた。パチンコ屋の事務はきびしく玉の数と勘定が合わなければならない。朝の入れた玉をつける事務と終わりの確認をする事務がいて自分は後者の方だった。このパチンコ屋では住み込みで働いていた。一階がパチンコ屋で上がアパートになっており、その上何階かが従業員用のフロアになっており、そこで住んでいた。半年でパチンコ屋をやめて野宿をすることになる。現在、野宿して2年半になる。(Case 46)