「ホームレス」の生活実態
by Naoko fujita
>> はじめに 第1章 第2章 第3章 資料(アンケート · 資料@〜A · 資料B · 資料C〜 · その他) 第2章 釜ヶ崎での生活体験第1節:釜ヶ崎(あいりん地区)について 大阪府西成区"あいりん地区"は、通称"釜ヶ崎"と呼ばれ、東京の山谷、横浜の寿町と 共に日本の三大日雇労働者街の頂点として、日本経済を底辺で支えてきた所である。 1961年8月に釜ヶ崎で起こった暴動を契機に、地区対策が実施され、1966年に大阪 府、大阪市、大阪府警本部の三者連絡会議で、イメージアップの為、地区名を歴史的名称で 無い、"あいりん"とし、1970年にあいりん総合センターが建設され、その中には、公共 職業安定所と、西成労働福祉センター及ぴ大阪社会医療センター付属病院も設置された。 "あいりん"とは、隣人を愛するという意味から"愛隣"となったと言われている。しかし、 釜ヶ崎の人びとは,「カマ」とか「西成」と呼んでおり、「あいりん」とはあまり呼んで いないのが現状である。(本文中においても、以下、この地区の事を、「釜ヶ崎」と記載していく。) 釜ヶ崎は、大阪都心部に隣接する西成区の北東に位置している。その範囲は、ほぼ800 メートル四方に過ぎない小さな地域であるが、その地域性は、堺筋を挟んで更に東西2地域に分ける事が出来る。 東部地域は、木造賃貸住宅が多く、また地域内を商店街が通るなど、どちらかと言えば、 住宅 · 商業地域を形成しており、大阪下町風情を色濃く残している地域である。 西部地域は、高層の簡易宿所が林立し、労働者相手の飲食店やコインランドリー等の商 店や露店が軒を連ねており、地域対策を目的とした関係施設の多くが集中している。 その中でも、医療施設である大阪社会医療センターは、無料低額診断医療施設である。 ここは、保険未加入等社会的 · 経済的理由から必要な医療を受けられない日雇労働者 · 高 齢者の為に、公的機関から依頼があれば、病院独自の貸付制度により、治療費の一部また は全額を、利用者との信頼関係において金銭的余裕が出来るまで貸しておくという事を行 っており、医療を必要とする人々に対して迅速に対応している。しかし近年、無料低額診 療の受診者が増加傾向にあり、経営を困難にしている事から、日雇労働者の健康保険への 適用促進策などの検討が求められている。 この周辺の地域内には、飲食店 · 弁当屋 · 作業服販売店 · 公衆浴場 · コインランドリー · コインロッカー等が多い。また、酒類などの自動販売機も多く設置されている。詳しい事 は、次節で述べるが、実際私が生活体験を行った時も、昼夜を問わず、あちこちで「ホー ムレス」らしき人が、酒を飲んでいる姿が見受けられ、アルコールにはかなり多くの人が 依存している様である。 800メートル四方の狭い地域に、200軒を超える簡易宿所や準簡易宿所が密集しており、 この地域の独自性を表している。 その多くは鉄筋 · 高層化しており、個室化 が進んでいるが、居室の広さは3畳程度で、各 部屋には炊事場やトイレ等の付属設備の無い ものが多い。この様に居間空間としては不備 · 狭小であり、食事 · 洗濯等の日常生活を 送る上で不足する部分は、簡易宿所の外に求めざるを得ない状況にある。 また、日雇労働者の斡旋はあいりん労働福祉センターで行われるが、その紹介時間は早 朝の5時頃から始まる為、同センター付近の簡易宿所は人気が高い。簡易宿所利用者の中 には、住居の転入 · 転居届などの手続きを行っていない者もおり、これが各種社会保険制 度への加入等を阻んでいる要因の一つになっている。 あいりん地域は、全国一の日雇労働市場として、東京都(山谷地域)や、神奈川県(寿 地域)を大きく上回る規模を呈している。地域の日雇労働者の就労先は、「(財)西成労働 福祉センター業務統計平成7年度版日々雇用の求人 · 紹介数」によると、産業割合で は、96,0%が建設業に従事している。(*4) この様な建設業への偏りは、日雇労働者の就労や生活に大きな影響を与えている。その就 労先の殆どは、零細事務所で、雇用管理が十分に行われていない所もある。また、建設業 界の中で最も弱い立場にある日雇労働者は、この業界が有する景気や季節による波動性の 影響を一番強く受け、労働者の生活安定は阻害されている。 更に地域の日雇労働者は、無能技能者が多く、建設業の中でも一般土木工などの肉体労 働が中心となっており、年齢の上昇と共に日雇い労働への就労機会が減歩している。これ に対し関係行政機関は、公共工喜発注機関等に対して、雇用確保に関わる協力依頼や求人 開拓等を行い、日雇労働者の雇用確保を図る為に種々の対策を行っ亡いる。しかし、一定 の成果は出ているものの、地域の日雇労働市場は経済情勢等によって大きく左右される等、 雇用確保は難しい状況にある。 高齢労働者の厳しい就労環境に対して、大阪府、大阪市が緊急対策として実施した特別 清掃事業は、地域の高齢労働者の生活安定に一定の効果があった。また、(財)西成労働 福祉センターが実施する、中高年齢者を対象とした技能講習や求人開拓は、高齢労働者の 雇用安定に一定の効果を出している。 しかし、高齢労働者の多くは、技能を有していない事等から就労機会は減少しており、 高齢である事から、他業種への転職も困難となっている。また、これ等の人は、年金に加 入している人も少なく、老後を支えてくれる家族等との関係が薄い人等、老後の生活設計 を立てられない人達が多い。今後は、更に高齢労働者の増加が予想される事から、それに 対応した高齢労働者対策が求められている。 以上の釜ヶ崎の地域性を踏まえて · 第2節では、実際私が3泊4日で行った釜ヶ崎での
生活体験を基にして、私の気付いた「ホームレス像」を示していきたい。
第2節:釜ヶ崎での生活体験から見る「ホームレス」像 私は短期間ではあるが、釜ヶ崎での生活体験を2000年11月25日夜から同年同月28日の夜まで(3泊4日)おこなった。 事前に持っていったのは、以下の物である。
私はこの生活体験で、第1章第2節でのアンケート結果より導き出した「ホームレス」 像を検証していきたい。勿論、当てはまる部分もあるだろうが、私は全てがそうだとは思 えない。もしそうでない部分があるとしたら、何故その様な誤解が生じるのだろうか。この 疑問が、この生活体験でのテーマの一つである。このテーマを踏まえ、事前に立てた課題は次の通りである。 とにかく「ホームレス」の人々の生の声を数多く聞く事である。更に生活費が3泊4日
で1,000円なので、日雇い労働をし、収入を得る事である。これにも私なりの意図があり、
働いて収入を得れば、当然、食事 · 寝床等、生活レベルは向上する筈である。逆に仕事を
得られなければ、生活レベルは貴窮するだろ · う。この事を踏まえて、「ホームレス」の人々
の生活にも、それぞれのレベルがあると考え、仕事に就ければ、ドヤ(簡易宿泊所)に泊ま
り、そうで無い日は路上 · シェルター(緊急避難所) · テントに泊まる事にした。
以下、私の生活体験の様子は、私自身の心情やこの街の雰囲気を少しでも伝えられる様、
論文には不適当だとは思うが、私の見た釜ヶ崎見聞録として、記述していく。
【釜ヶ崎見聞録一:出発前】 私が、今論文を書いているという事は、生活体験から無事帰ってきたという事であるが、 現地に行く前はかなり不安であった。というのも、私は生活体験とは別に、事前にフィー ルドワークを何度かしていたが、それでも、現地に行く2、3日前は、落ち着かなかった。 何故なら、私は知人等に釜ヶ崎に行くと言うと、彼等は口を揃え、「ヤバイ」「やめとけ」 という様な忠告をくれた。この様な事で、不安な気持ちで現地に行くに至った訳である。 【釜ヶ崎見聞録二:前夜】 25日の夜10時新今宮駅(南海線)に到着した。信号を渡れば釜ヶ崎はすぐである。 この時間帯は人通りが少なく、酔っぱらいや普通の通行人の動きがちらほらある程度であつた。 釜ヶ崎の中を色々歩いたが、特に変わった様子も無く、私は、野宿をする為に下に 敷くダンボールを探しに歩いた。ダンボールなど、すぐに見つかりそうだが、汚れていた り、小さかったりと、なかなか適当な物は見つからなかった。 商店街の中を歩いていると、ダンボールが多く積んである所を発見した。その傍らには、 「ホームレス」らしき、60代位の男性が寝ていた。そこで私は、「一つ位持って行って も良いよな一」と言うと、その「ホームレス」の男性は起きていたらしく、「これは全部俺 のやぞ。持って言ったらあかん。」と言った。 この時私は、私にとっては何でも無いダンボールでも、その「ホームレス」め男性にとっ ては、それが財産の一つであった事に気付いた。 何とか私はダンボールを見つける事が出来、 適当な場所を見つけ就寝した。慣れない環境 で寝ている為、熟睡出来ず何度も目が覚めた。 周辺の事(この時は、犬や車中の知らない人 に覗かれた)がひどく気になった。朝方四時 頃には、急に温度が下がり寒さが身に染みた。 健康な私ですら、たった一日の野宿でこんな に堪えたのだから、この様な生活を毎日して いる人、更に高齢者であればより厳しいだろ う。毎年、多くの凍死者が出ている事も頷け る。 【釜ヶ崎見聞録三:初日】 26日朝4時半頃には、シェルター(緊急避難所)から多くの「ホームレス」の人々 が出てきた。後日調べた所、シェルター内のベッド数は600床もあるが、それでも希望 者が全員入れる訳では無く、毎晩多くのシェルターに入れなかった人々が寒空の下、野宿 生活を強いられている。私はシェルターの出入り口付近で野宿していた為、人の出入りで 落ち着かず眠っていられなくなった。そこで仕方無く、起きて行動し始めたのである。 三角公園付近を歩いているとAさんが私に話しかけて来た。
《Aさんについて》 Aさんは、かなりの量のお酒を飲んでいる様子で、アルコールの臭いがした。このA さんは、天理教を信仰している方で、お金を割と持っている様であった。私を市役所の職 員と勘違いする程酔っており、「どうも有り難う」と言うのが口癖であった。 一度私は、Aさんと別れ、もう一度三角公 園の周辺を歩いていた。すると今度は、Aさんを含めた4人の「ホームレス」の人々と 出会った。私はAさんに呼び止められ、4人 の「ホームレス」の方と話す機会を得たので ある。 彼等は、道路脇の路肩に腰を下ろし、酒を飲んでいた。私が加わる事により、それは宴会状態になりつつあった。私達の生活の中で は、朝から酒を飲むという習慣はあまりない が、釜ヶ崎の人々の生活には酒(アルコール類)が深く根付いている。 Bさんは、私に「兄ちゃん何処から来たん」と聞いてきた。私は「滋賀県です。勉強させてもらいに来ています。」と正直に答えた。 それにも関わらず、Bさん達は、快く私を受け入れてくれた。私は、下手をすると、彼等に「ホームレス」を冷やかしに来たと思われるかも知れないと考えていたので、彼等のこの反応がひどく嬉しかった。 《Bさんについて》 このBさんは、沖縄県出身の男性であり、妻と六歳の子供がいるそうだ。「仕事が無か ったら、九州の人は皆ここ(釜ヶ崎)に来る」 と教えてくれた。とにかく大阪に出たら何と かなると思い来るが、結局は仕事が見つからず、釜ヶ崎に流れてくるケースも多いらしい。 更にBさんは、十万人に一人という難病を抱えており、以前は入院していた様だ。しかしBさんは、日雇いの仕事が入り、病院を自主退院して来たと言っていた。必要な療養すら、する余裕が無く、身体に負担を掛けているBさんに対し、私は『かわいそう」と いう感情以上のものを感じた。「哀れみ」と いうよりは、むしろ「敬意」に近い。それは 私が、Bさんから生きていく事に対する執念の様なものを感じたからであろう。Bさんは、「勉強しに来るのは構わへんけど、ここに染まったらあかん。地獄を見るで。俺もそうやった。」と私に言ってくれた。私も実際、ここでの生活中、滞在期間が予め限られていた為だろうが、この生活も悪く無いと思ってし まった事が何度かあった。しかし、この何時終わるとも知れない不況の中、不安定な生活が続いていくとしたら、孤独と寂しさから、彼等が酒に依存してしまう事も十分に納得がいく。 《Cさんについて》 Cさんは、六十五歳の白髪の男性である。このCさんは、糖尿病を患っており、血糖値が下がらず、左足をつけ根から切断したそうである。CさんとBさんとの、「こいつだけやねん、俺の身体を気遣ってくれるのは。」 という会話から、私は、この二人が、お互い にしか分からない良い関係を築いていると感じた。今現在のCさんの主な収入源は、空き缶 · ダンボール収集であり、青カン(野宿生活)をしている様だ。以前、Cさんは生活保護を受けていたが、飲酒がばれて打ち切り になったそうだ。また、生活保護を再会するには、役所の人に更生した姿を示さなければならないそうだ。しかし、Cさんは現在もアルコール依存症は改善されていない。生活保護と言っても、必要最低限のお金が支給されるだけで、このCさんが、受給していた当時、どの様な生活をしていたか、この会話からは分からなかった。しかし、Cさんが、お金を遣う計画性が無いという事は分かった。そして、無差別平等が原則である筈の生活保護が何故、アルコール依存症の人には適応されないのか。生活能力の有無だけで簡単に打ち切られるものなのかという疑問を感じた。私は、最後にCさんに、「最近寒いけど青カ ン大丈夫ですか。」と聞いた。Cさんは、「凍死するかもしれないけど、この生活は楽しいからやめられへん。」と言っていた。 《Dさんについて》 Dさんは、五十代の温厚で人の良さそうな、男性である。私は、このDさんと色々話をする内に、彼が以前アルコール中毒で、前科(恐喝)六ヶ月であった事を知った。普段の生活で、このDさんの様に、他人に、自らの前科を話してくれる人は珍しいだろう。しかし、私がこの生活中に出会った「ホームレ ス」、十数人の中では、Dさんを含めて二人もいた。実際の所良く分からないが、恐らくこの様に前科を持っている人はこの地域には多いのでは無いかと思う。 私はDさんの勧めで、「ふるさとの家」のミサに参加した。この「ふるさとの家」は、キリスト教協友会が管理している。教会の中 には、「ホームレス」の人々と、そうでない人々が混じっていた。私はこの釜ヶ崎が隔離されている場所と考えていたが、そうではなく、様々な人の往来がある。 私は、生活体験に行く前に、私に様々なアドバイスを与えて下さった、大阪社会医療セ ンターでMSWをされている方の言葉を思い出した。この人は、「ここ(釜ヶ崎)を知らない人は、ここを怖い街と捉えているが、この近辺に住んでいる人は、幼稚園児でも平気で通行している。ここは、柄が悪い所かも知れないけど、ここの人(ホームレス)が、子供に危害を加えたという話は、この場所で十数年働いているけど、私は聞いた事が無い。」と言っておられた。釜ヶ崎近辺では、「ホームレス」と「そうでない人」がうまく共存し て暮らしている様である。 この事を示す例は、他にもこの様な事があった。私は、生活体験に持ち込む以外の荷物は釜ヶ崎内にある商店街のコインロッカーに預けていた。最終日に、この荷物を取り出そうとしたが、細かいお金が無かった為、両替してもらおうと商店街の酒屋に入った。すると、「ホームレス」らしき男性が店員と交渉している所に出くわした。暫くその様子を伺っていると、店員は、「おっちゃん、明日お金を持ってきいや。」と、「ホームレス」の男性に酒を渡した。「ホームレス」の男性は、申し訳なさそうに何度も頷いて去っていった。 この様な光景もこの地域では珍しく無いのかも知れない。私がこのミサで知り合ったのが、Eさんである。 《Eさんについて》 Eさんは、五十歳 · 九州出身の男性である。 朝から多くの酒を飲んでいるのだろう。アルコールの臭いがしていた。このEさんは、 面倒見が良く、自分が泊まっているドヤを見せてくれた。私が、以前「勝ち取る会」.とい うボランティア団体で「炊き出し」をした事があると話すと、Eさんは、「勝ち取る会」 に出入りしている人らしく、この団体の事務所に案内してくれた。 《「勝ち取る会」の方の話》 そこで私は、以前ボランティアで御世話になった方に再会した。その方に、今私が三泊四日で生活体験をしている旨を伝え、お話を伺った。「先程、他の方(ホームレス)に、 朝から酒を飲むのが釜ヶ崎流と聞いたのですが、それはどういう事ですか」と私が聞くと、 その方は、「ここの人は、孤独からそういう生き方しか出来ない。かと言って、家も仕事も無いし、家族と連絡も取れない。」と言い、 更に、「釜ヶ崎の環境と、個人の弱さがアル中を作ってしまう。」と教えて下さった。私達の生活には、様々なストレス解消法がある。 勿論、飲酒もその一つであるが、釜ヶ崎の人々は、「お酒を飲むしか仕方が無い」と言う。 私も実際、この日(26日の朝)に「本一ムレス」の人々とお酒を飲み、とても楽しい気分になれたし、知らない人とも話が盛り上がった。 アルコールが、気を紛らわす為には十分過ぎる物だと感じた。 昨夜の野宿中、朝の四時半頃に「ホームレス」の人々が、シェルターから出て行った。 その600人が何処に行ったのか疑問に思い、この事についても聞いてみた。「朝、シェルターから追い出された人達(ホームレス)は 何処に行くのですか。」という私の問いに、この方は、「600人中、400人程があいりん総合センターに流れる。そこに行けば仲間に 会える等、理由は色々やで。」と答えて下さった。 また、私は「長居公園」の「ホームレス」簡易宿泊施設建設問題についても、この方に 話を伺った。「長居公園のシェルター(簡易宿泊施設)建設は、行政の圧し決定でいくやろ。 でも住民は、ホームレスの定住化等を理由に反対している。行政は、地域住民と、そ こで暮らすホームレス自身にも、納得のいく建設理由を示さなあかん。」と言って下さった。 また、T氏は最後にこの様な事を教えて下さった。「ホームレスが」、テント · ダンボールを 住居として確保しているのは、若者のイタズラから自身を守る為の自衛手段なのだそうだ。 我々なら、家に鍵をかけたりするが、彼等は、自らの安全をその様なささやかな方0法で守っている。 この話を聞いて、改めて、「憲法第25条」で保障されている、最低限度の生活(生存権)とは何なのかと考えさせられた。 その後、16時頃に三角公園を通ると、公園内でテレビが点いているのが見えた。 その周辺には、40人位の「ホームレス」の人々がいた。私は、テレビを見ていた「ホームレス」の一人に 「何故テレビがあるのか」と聞いてみた。すると驚く事に、そのテレビは、 西成区の防犯課が管理しており、平日は昼頃から点いており、今日みたいな日曜日は、16 時から22時頃まで点いているのだそうだ。 17時頃、私はシェルター(緊急避難所)の整理券を貰う為、センター前に行った。整 理券配布は18時頃からであるが、もうすでに500人位の人が並んでいた。結局、私は 整理券を貰わず、途中で抜け出した。何故なら、私がその券を貰ってしまえば、他の「ホ 一ムレス」の一人が、シェルターに入れなくなると考えたからである。 暫く様子を見ていると、シェルターの整理券が無くなり、今度はテントの整理券が配ら れ始めた。私はシェルターの事は知っていたが、テントの存在は知らなかった。私は、シ ェルター · テントを管理している、「NPO釜ヶ崎支援機構」の職員に事情を話し、テント の整理券を頂く事が出来た。 その後テントに行き、テントの入り口で整理券と引き替えに乾パンを貰った。これは、 真空パックに詰められた5個入りの乾パンである。 このテントは2階建てで、収容人数は220人、一階にはストーブが点いていた。私は2 階に就寝場所を取った。広さは約畳一畳分であり、となりとの間隔が狭い。(資料参照) このテント内で、「ホームレス」は、ラジオを聞いたり、自分が買ってきた食料や乾パンを 食べたりしていた。私も乾パンを3枚食べたが、硬くて食べにくく、歯の悪い高齢者は食べられないだろうと思った。 19時頃には、殆どの「ホームレス」の方が就寝された。日頃の私の生活環境と比べると、 ここもひどい環境ではあったが、1日目の野宿生活と比べれば、ここは断然快適であった。 ここの備え付けの毛布は、様々な人が使用しているのを使い回しているので、ノミやシラ ミが湧いていそうであった。私は、20時頃に就寝したが、とにかく畳一畳分では狭く、 周りの人に気を遣った。また、テントなので、外の車 · 電車 · 屋台の音が良く聞こえた。 【釜ヶ崎見聞録四:二日目】 私は昨日の夜、テント内で若い労働者と出会った。彼は翌朝3時頃から仕事を探しに 行くという。今日は私も日雇い労働をする予定にしていた為、3時頃から行動を開始した。 仕事を求める流れとしては、大体の労働者 · が3時頃から5時頃までには、業者の車が集 まるセンター前に行く。,そこで、手配師と呼ばれる業者と、労働者が給金面での交渉をし、 双方が合意したら、労働者は手配師の車で現場へと連れて行かれる。仕事の形態には、2 種類あり、釜ヶ崎の人は、「日雇労働」の事は「現金」と呼び、10日〜15日位の期間で働く事を「契約」と呼び区別している。 この日私は準備に手間どい、結局センター前に着いたのは、4時30頃であった。この 時間では遅く、なかなか仕事が見つからなかった。今日の仕事は無理かと思った時、手配 師の方から私に声をかけてきた。仕事に就く事が出来た。どの様な仕事をするのか、何処 の現場なのかもはっきりせず、不安を抱いたまま業者の事務所へと連れて行かれた。そこ で一緒に来た労働者は3手に分けられ、それぞれ異なる現場へと連れて行かれた。 現場によって仕事内容は変わるが、私の行った現場は比較的楽で、私の不安は取越し苦 労に終わった。仕事終了後は現地解散であり、交通費は出なかったが日当は10,000円で あった。電車を利用し、19時頃釜ヶ崎に帰ってきた。 この日は仕事にも就く事が出来たので、宿泊料1,400円のドヤ(簡易宿所)に泊まった。 このドヤは、畳3畳程の広さで、冷暖房 · テレビ · 冷蔵庫付きであった。チェックインを 済まし、私は、「ホームレス」の人々と会話をする為に、 居酒屋 · 定食屋をへと向かった。 しかし、この時すでに20時過ぎており、殆どの店が閉まっていた。たまたま通りかかっ た焼鳥屋で、以前炊き出しのボランティアをした時に会った事のある方と再会し、その方 に釜ヶ崎の事を伺う事が出来た。 その内容は、「仕事を探す時は、業者の車のナンバーに注意しないと、現場が遠距離の 場合、交通費が出ない為、収入が減る。」という事や、「のみ行為(違法賭博行為)が横 行しており、ドヤ内等、至る所でそれが行われている事、そこには、私服警察を見張る為 の番人もいる」という話であった。その後ドヤに戻り、久しぶりに落ちいて眠る事が出来た。 【釜ケ崎見聞録五:三日目】 この日は早朝より、これまでの行程を確認するつもりであったが、疲労が溜まっている せいもあり、起床予定時間を大幅に遅れた7時30分に目覚めた。平日は毎日8時頃から、 センターの3階で失業給付の受付が行われているので、その様子を見に行った。そこに到 着した頃には8時を過ぎており、既に多くの人が並んでいた。11時頃からは、お金の給 付が始まり、私位の歳の人、小さい子供を連れた親子も見受けられた。 無料診断を受けられる医療センターには、多くの「ホームレス」の方が並んでいた。こ こで、割と若い中年の労働者達に声をかけられた。彼等は、私がボランティアの人間か、 「ホームレス」であるかを探っている様な感じであった。ボランティアの人間ならば、私 が持っている毛布を貰おうとしている様だった。 この時は、私自身釜ヶ崎に馴染んでいるつもりであったが、私の身なりや態度は、日雇 労働者には見えないらしく、目立っていた様だ。私としては、釜ヶ崎に合う格好をしたつ もりであったが、露店主と話をした時も、私がどの様に見えるかを聞いてみたところ、そ の露店主は、「学生か、ボランティアだ」と言いきった。また、「どんな身なりをしてい ても、私服警官か、そうでないかも分かる。」と言っていた。つまり、「目が違う」という事なのだそうだ。 その後、三角公園で行われる炊き出しに参加させてもらった。最初は、炊き出しのボラ ンティアとして参加し、その後実際、「ホームレス」達の列に加わり、行列に並んだ。食 べ物を手に入れるまでに1時間待った。大人数(約1,200人)が並んでおいる為、材料が 切れてしまう。また、調理するのに時間もかかる為、遅くなってしまう。私は、その時ま だ空腹が満たされている方だったので、その時間は苦ではなかったが、この炊き出しだけ で、命をつないでいるホームレスの人びとにとっては、どうだろうか。きっと、辛いという言葉だけで表現できない筈だ。 きっと、自分が情けなくなってしまうだろう。 私は、炊き出しの列に並んでいる時に、66歳の男性と話をすることができた。この方 は、釜ヶ崎で青カンしているのではなく、通天閣(新世界)の商店街で青カンしており、三 角公園の炊き出しの時には、足を運んでいるようだ。この方は、大変身なりがきれいで、 ここ(釜ヶ崎)で見なければ、ホームレスの人とは思えないだろう。私は、商店街で青カン をしていたら、お店の人に嫌がられると考えていたが、必ずしもそうではない。この方の 場合は、最初は商店街の掃除をしていたそうだ。暫くそれを続けた時、「おっちゃん、い つもきれいにしてくれてありがとう。」と言ってくれ、酒 · お金 · 食べ物の援助してもらえる様に なったそうである。その時、商店街で強盗事件があり、その店主が警察を呼ぶ前に、「おっちゃん、はよ逃げてや一。おっち ゃん達のせいになったら気の毒やし。」の言葉から、その地域と共存していることが分かる。 しかし、理解のない地域では、排除されることもあるだろう。これはよい例である。 また、この方は、釜ヶ崎の人たちについて、「得た収入をすべて酒に使ってしまう。俺は、 そうではない。着替え · 週1回の風呂などでお金を使い、あまった分をお酒に使う。 だから、釜ヶ崎の人は、良く体を壊してしまう。」と言っていた。 他にNさんと話をした。Nさんは、詩を書いていて朝日新聞にも取り上げられた事が ある方である。「釜ヶ崎の人は、ここのペースと力で生きている。だから、ホームレスでは なく労働者である。空き缶を集めることによって、収入を得ること。それは、立派な労働である。」と言っており、 「この事だけは分かって欲しい」と言っていた。私達が考える労働は、どうしても会社なり、アルバイトなり` それなりの収入を得ることを労働と考えてしまう。 しかし、数百円単位の少ない収入であるが彼らは、彼らなりに立派に働いている事を見逃してはならない。 この3泊4日の生活体験で多くの人と接してきたが、私から話かけなくても、ホームレスの人達から話かけてくれた。それには、やはりアルコール類が入っていることも否めな い。だが、私が見た感じでは、人に危害を加えた場面は、目にしていない。 私が出会った人達は、皆さん気さくで、いい方ばかりで、空き缶 · ダンボール収集なり、高齢者掃除 · 日雇労働なりをきちんとしてい たが、やはり、お金の無計画な使い方には気になった。 |