おわりに
このように野宿をしている人々は「ふらふら」しているわけでなく、彼らにも当然行かなければならない場所・守るべきルール・時間厳守などが存在しているのである。「彼らは自由だ」という言説が一般的に広まっているようだが、これは多くの野宿をしいられている人々には当てはまらない。お金がなければ移動の自由が制限されるし、人間関係からの開放といっても、聞き取りからわかるように、人間の一生は他の人間によって大きく影響される、これは「野宿者」とて例外ではないのだ。
私はこの論文の中で、かつて「野宿者」と呼ばれていた友人たちのプライバシーを侵害してしまったかもしれない。しかし、これを読んだ人々に一人一人の生き様、人間性を理解してもらうことで、「野宿者」と呼ばれる人たち全般に対する理解を得たいと思ったのだ。それぞれに全く違ういきさつがあり、野宿に至ったのではあるが、そこには自分でどうしようもできない事情や環境があったかもしれない。
私たちは「野宿者」に限らず、自分と生活パターンの全く異なる人たちに対して誤解や偏見を抱きやすいのではないだろうか。人が人を理解するということは難しく、時間のかかることである。忙しい現代社会では、時間をかけて他人を理解することは少なくなっているし、その必要もなくなってきていると感じる。それはそれで心地よいことなのかもしれない、しかし、理解しようとしないだけならともかく、理解できない他人をもののように扱い、暴力を振るったりすることは許せないことだ。差別や差別にもとづく暴力をなくすためには、相手を知ることが大切であると思う。「ラベリングが全面的に成立しやすいのは、レッテルを貼られる者と貼る者とが完全に匿名関係にある時といえばいえる。両者の社会的相互作用が深まれば、逸脱の事実だけでなく、その個性や生活歴が認識されるから、再解釈と定義のやり直しが可能性として浮上し、単純なレッテル貼りに止まらず、ひとつの新しい展望が生み出される可能性もあるだろう(注1)」
「野宿者」も人間である、とは当たり前すぎて、わざわざ口にするのも変な話だとは思うのだが、市民意識調査の自由回答欄には「野宿者が歩道を占領していたり、車の路上駐車など最近は悪質なものが目立つと思う。もっと、子供が安心して住めるような環境にしてほしい」とか「迷惑駐車と同じく野宿者は絶対に許すことではない。行政側の強力な努力が必要で一度や二度でなく無くなるまで続けるべきで対応をもっと早くしてほしい。事故や事件が起こるまでに処理してほしいものです」のように「野宿者」と迷惑駐車を同じようなレベルで並べてしまう人がいたり、もっとあからさまに差別的な言葉を並べているものがあった。これらを読んで思い出したのは、昨年APECが大阪で行われたときに、大阪府・市と警察が路上駐車と「野宿者」の追い出しをセットにして行ったということだ。このときの政策が大阪市民に「野宿者」と迷惑駐車を並べる感覚を植え付けたのではないだろうか。このように警察の行いや行政施策が一般市民の日雇い労働者や「野宿者」への差別を煽っているということは、八木晃介も指摘していることである。八木は大阪府警南署による日雇い労働者への指紋強要・顔写真撮影事件や大阪府と大阪府警が飲食店主に対して「残飯にはタバコの灰をまぜ、ビニール袋に入れて捨てるように」と行政指導したことなどをさして、「このような血も涙もない行政施策は明らかに一般市民の日雇い労働者への差別意識をかきたて、さらにはその差別意識の合理化をオーソライズしたであろう(注2)」と述べている。
以下は「野宿者を収容する病院」に勤めている22才の女性が市民意識調査の自由回答欄に書いた言葉である。
野宿者の方たちもなりたくてそうなったのではなく、なんらかの理由でそうなってしまったのだと思います。それはさまざまで身体的なこと、社会的なことなどいつも話を聞いていてとても考えさせられます(中にはただ単に働くのがいやという人もいますが)。社会からこういう人たちがなくなることはないと思いますが、周りのみんなが野宿者の方たちも人生いろいろあってそうならざるをえなかった人だと心の中でどこかに思っているならば、ああいう事件(難波の戎橋から藤本さんが投げ落とされて殺された事件)はなかったと思います。政府に対してもっと考えてほしいと思います。皆が働けるような場を作ってくださいと。
社会から野宿する人がいなくなることはないのかもしれない。しかし、野宿せざるをえない人たちを「私たちとは異なる野宿者」としてとらえ、カテゴリー化してしまう「まなざし」をなくすことは可能であると思う。
「野宿者」は決して特別な異人種ではない、「われわれ」の中の1人がたまたま事情により、野宿を強いられているのである。