代々の乞丐

    世には父母の代から物乞するものを腹からの乞丐とてこれを浅間

   {し}がる人もあれど流石に大坂は大坂だけに南区日本橋筋旧名護

   町には先祖代々こげつきの乞丐あり名を喜平衛と呼び小島屋の大哥

   とて今尚ほ同社会にては威を利かす由その巣窟といつば同町ガタク

   リ路次の突当り右手は惣雪隠左手は塵芥場その間に介りたる間口一

   間奥行九尺の破屋だといつたなり後は言葉も出かぬる程なる畳二帖

   敷の室内に家族六人が雨露をしのいで居る境界、遊び半分のつとめ

   でしたゝか金を取る大な月給鳥はいふまでもなく先代が汗水たらし

   た余徳で世を楽々と贅沢いひ放題微塵も苦をせぬ船場の真中の福々

   長者連にこれを見せたら何の因果か罰当りとて人間のやうには思ふ

   まいが三日すれば忘られぬといふの乞丐のことを結句これが気安く

   てよいと見えこゝに代々住みなれし喜平衛も今回の夫の引移し一件

   にて一般に同町を追立てられることとなりしかば喜的大に苦情を鳴

   して曰く開化/\と仇うるさい今こそ世に益のない娑婆ふさげと邪

   魔にさるれど昔は我々仲間にてもそれ/\公儀の御用を勤めしのみ

   ならず或は讐家を狙ふため又は紛失の仕寶を索すため歴々の人の身

   を扮して我々仲間に入るものあり即ち忠臣蔵の間重太郎や箱根山の

   躄勝五郎、鶯塚の佐々木源之助、鳥部山の小車源次、天下茶屋の伊

   織、大安寺堤の春藤治郎左衛門兄弟、又美人では関寺小町や小栗判

   官の照手姫や安達三段目の袖萩や宿屋の段の□□など皆仲間の人々

   殊に自己が先祖の喜平衛はこの名護町の開闢以前ズツト昔の文禄時

   代に堂島辺の合羽島に生れ漁を以て業とせしが性来のなまけもの稼

   ぐことが嫌ひで遊ぶが好ゆゑ智嚢から無職無業で世を渡る術を絞り

   出しその時分は尚だ此処が乞丐の巣窟すみどころといふ定りもなき

   により腫物と同じやうに処かまはず起臥をして腹が減れば□人家の

   門に立ち残余いたゝかしてと強請る此は是れ昔々のそのむかし夫の

   聖徳太子が思ひついて天王寺の悲田院で救を乞ひし貧乏人さへ尚だ

   心着かざりし一工夫にして即ち自己が先祖小島屋喜平衛が発明ゆえ

   家号と名前の頭字さけで小島喜と人の呼初めしと代々の言伝へなり

   左れば自己が先祖は乞丐のはじまり仲間の威の利くは当然にて既に

   三代目の小島屋喜平衛は丁度夫の大坂陣豊臣家滅亡の時に生れ合し

   て関東勢の兵糧小屋から焚出しの残余をいただいたこともあり当時

   大坂方の軍師と聞えた真田幸村は何ういふ謀計あつてなるか我々仲

   間を遠く追払ひしゆえ爾後は河内国闇峠の麓なる松原辺に巣をかま

   へて世の治るを待つた後二代目は先見あきらか寛永十三四年のころ

   日本堤や名護の浦などといひし今の日本橋より南を見立てゝ此に始

   めて巣窟を定めぬ今に至つて百五十年あまり連綿と打続きたるは全

   く吾が三代目の賜にて名護町開闢以前は今の如くに人家はなく生玉

   の朱の玉垣ちら/\と樹の間に見ゆるばかりであつたと故に自己が

   先祖は土地の草分け良し 代々家賃不払で家主に世話を焼かしたに

   もせよ麁末には出来ぬ我々仲間それを突然に今が今ソレ立退けのヤ

   レ引払へと無性に追廻されては迷惑千万これといふも畢竟夫の内地

   雑居の下拵へ市区改正/\アゝ蒼蝿いぞ開化の世の中この調子では

   何処から何処までも我々仲間を追除けるならん全くの宿なしとなら

   ぬ中に出雲(紙屑拾)かなんぞに転業せねばなるまいがこれも熟れ

   ねば稼ぎにならず何か他に飯の種にありつくまで少しは立退の猶予

   をしてヘイ戴きたうござりますとて果は本事の残余の強請り口調ゴ

   テ/\と頻に愚痴をこぼして居るとのこと乞丐の分際でも亦それ相

   応種々と口実のあるものなり

   

   {1}……欠字

   著者:大阪日報
   表題:代々の乞丐
   時期:18870730/明治20年7月30日
   初出:大阪日報
   種別:乞食