養児を死に抵したる嫌疑

   一昨日難波村にて養児を死に抵したるものありとの事に付猶其顛末

   を聞くに同村廿七番地(鉄眼寺境内)平民大工職山本藤吉(卅三年)

   といふもの三四年以前吾出生地勢州四日市より当地に籍を移し今の

   処に居住して内縁の妻たい(紀州北牟婁郡矢口村十番地平民植村源

   次郎長女)と共に暮し居るうち去七月初旬より持病の起りす臥床に

   就くほどにもあらざれどブラ/\としていつ快復すべしとも思はれ

   ざるより幸ひ吾回縁の者が伊予の松山にて当時常立軒と称し医業を

   なしけるゆえ一応其方へゆきて養生せんものと妻たいを当地に残し

   自分一人彼地に赴きしは去九月上旬の事然るに自分の姉さきの嫁付

   きし勢州四日市北の町吉田猶三郎夫婦と其二男三郎左衛門(五年)

   の三人も恰も此常立軒に来合はせ居たれば藤吉夫婦の間に子なきを

   以て三郎左衛門を養子に貰受くる談整ひ頓て自分の持病も稍快方に

   向ひたるまゝ常立軒より少々路用を貰ひ三郎左衛門を携へて本月十

   日頃当地に帰りしのち何事もなく三人暮し居たるに去十六日午後八

   時に至り其養児が急に死去せりとの事なるに其間何となく不審に思

   はるゝ廉あり殊に黄昏頃まで鉄眼寺境内にて近所の小児と遊び居た

   るを見受けし者さへありて近所に彼是取沙汰あることの早く難波分

   署詰特務掛の耳に入り兎も角其死亡届を閲せんため同特務掛は翌十

   七日午前九時頃同村戸長役場に出張すると彼藤吉が只今養子三郎左

   衛門の寄留届を持来りて語るやう此養子は昨夜病死せしに付追て死

   亡届を差出すべければ八弘社の処宜敷頼むと申置きて立去りしとの

   事に特務掛は斯と聞くより暫時役場に待居ると程なく再び医師の死

   亡診断書を持来りしを以て其まゝ同人を分署に引致のうへ署長山田

   警部が同人の家に就き死体を検査するに全く殴打死に致したるやに

   思量せらるゝものあるに依り早速当軽罪裁判所へ此旨急報すると直

   に同所より予審掛の上田判事と日比野検事が書記を率ゐて出張し其

   死体を検視すると頭部に四ケ所面部に二ケ所首の右脇に一ケ所左の

   手腕に一ケ所の重き打撲傷あり猶面部より首部に掛け膨張なし恰も

   熱湯を濯ぎかけたるやうの痕跡あり又家宅を捜索すると竈の傍より

   栗の木の棍棒が現はれ出たり其殴打なしたるは此棒を以てせしには

   あらざるかと疑あるより證拠品として之を押収せられしとの事なる

   が果して殴打罪か将た故殺罪かは取調中にて未だ判然せずといへり

   猶再報を待て記する所あらん

   

   著者:朝日新聞
   表題:養児を死に抵したる嫌疑
   時期:18861019/明治19年10月19日
   初出:朝日新聞
   種別:養子