南区日本橋三丁目四丁目五丁目({1}ち長町)の地主は本年三月
を以て左に掲載する願書を連署にて知事に差出し而来其指令を待ち
て去五月に至り一同は又之に関する追申書を知事に差出し其要領は
去三月出願せし事にして許可あらば三箇町の在来の家屋は許可の月
より向ふ六箇月間毎に取払い其着手順序は第一に三丁目第二に四丁
目第三に五丁目とし全たく十八箇月間に取払ひ了るに予定す取払ひ
し跡には直に願書に記載する建造物を建造すべしという事にて早く
許可あらんことを促せしものなりしが知事は一昨日を以て願の趣は
興行場、遊覧場、人寄席、遊戯場及び劇場二箇所を免許すれども其
他は詮議に及び難き旨を指令せり就ては此二箇所の劇場といへるは
皆新に建造し諸興行場の如きは千日前にあるものを明年十二月三十
一日限(本月より十八箇月目にて家屋取払い期限なり)にて之を廃
し悉皆右の地に移転すべき旨を其筋より諸小屋主に命ずべき筈にて
此く許可を得たる三丁目四丁目五丁目の地主は昨日南警察署に出頭
し五丁目の出口、名護橋の北畔、三丁目の彊界{}ち出口となる処
へ夫々是より以北或は是より以南何々免許地と書き付けた一尺角に
て高さ一丈の標木を建て度旨を願へり以上は已に前号の紙場に大要
を記載したれども猶斯くは詳報するものなり其願書の写しは乃ち左
の如し
南区日本橋筋三丁目乃至五丁目俗称名護町の地位たる大阪市街の南
隅に位し其通衝は国道に位しながら商業の振はざる他町に比類すべ
きなし蓋し其然る所以のものは他なし古来名護町と言はゞ直ちに貧
民無頼者の巣窟と知らるゝ一種無比の地にして正確なる商業を盛大
に営まんとするも得べからず其実際の商業に於ける彼等貧民を{1}
主として営む業にあらざれば家屋を貸し其借料を得るを以て生計と
なすもの十中八九概ね然りとす夫れ如斯の実況なるえお以て貧民生
を営む此地の如き至便なるはなし爰を以て全国の貧民は自ら此に移
住し終に全国下等社会の淵叢なりたるものに有之今や世運漸く進化
し市区改良と云ひ内外人雑居と云ひ既に旧観を存すべからざる時世
に際したるを以て私共に於ても決して故観を快となすものに無之候
得共奈何せん上{}記述の如く祖先以来専ら彼等貧民より借家料を
徴し以て僅に生計し来り他に方向を求むるの途無之より自然故態に
安じ候訳の有之然れとも時己に改良の己むべからざる場合に際した
るを以て一同苦心種々計策を考究致候得共差向善良の方法無之特り
下文に哀願する所の計画あるのみ他なし別紙略図朱線内(記者附言
此朱線内といへるは{}ち三四五の三ヶ町なり図は略す)を以て一
は興行場となし近くは西京西京極の如くし字千日前を始め市街に散
在せる所の諸興行物をして悉皆此に移転せられ以て私共地主多数の
地主をして活路を失する虞なき様特別の御許可被成下度左候はゞ免
許地即ち別紙朱線内の矮屋を撤却旧観を一変し自然今日の時勢に添
ひ且は私共多数の地主に於ても幸に生活の途をず難有仕合の奉存候
就いては左に方法の概況を叙列し御許可を仰ぎ候
一 市街及び社寺境内地に有之諸興行場八月限期して移転せしめら
れ度事(但し自然己むを得ざる事情等有之候はゞ差向千日前を先に
せられ其他は漸次に移転せしめられ度候
一 市街に散在する現在の劇場中其二三を移転せしめられ度候事
(但し己むを得ざる事情等有之候はゞ朱線内へ新に二三劇場を特許
せられ度候
一 新町堀江等の遊郭を移転せしめられ度候事(但し己むを得ざる
事情等有之候はゞ朱線内の一区域へ特許せられ度候
一 朱線内従来の家屋取払いは興行小屋等の敷地に需用あるに随ひ
漸次に撤却可致候事
一 本文特許有之次第略図△印の」位置に「官許諸興行場」と書し
たる標木を取建申度候事
右特別の御詮議を以て御許可被成下候様三箇町地主一同連署奉願上
候也
明治二十年三月六日
著者:朝日新聞
表題:興行場其他の新免許
時期:18870724/明治20年7月24日
初出:朝日新聞
種別:興行地移転