釜ヶ崎

    カツテ、幾人カノ外來者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奧

   深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――こ

   のやうに、ある大阪地誌に下手な文章で結論されてゐる釜ケ崎は

   「ガード下」の通稱があるやうに、惠美須町市電車庫の南、關西線

   のガードを起點としてゐるのであるが、さすがその表通りは、紀州

   街道に沿つてゐて皮肉にも住吉堺あたりの物持ちが自動車で往き來

   するので、幅廣く整理され、今はアスフアルトさへ敷かれてある。

   それでも矢張り他の町通りと區別されるのは五十何軒もある木賃宿

   が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織

   り込んで、陰欝に立列んでゐるのと、一帶に強烈な臭氣が――人間

   の臟物が腐敗して行く臭氣が流れてゐることであらう。

    一九三二年の冬の夜、小さな和服姿の「外來者」が唯一人でこの

   表通りを南の方へ歩いてゐた。冷い雨が降つて、彼のコーモリ傘を

   握つた指先も凍つて痺れてゐるのに、別にここで宿を求めるでもな

   く、人を訪ねるけしきもなく、ゆつくりとした足どりであつたが―

   ―その樣子を、家の軒端に立つて、今まで首卷き代りにしてゐた手

   拭で頬被りし、腕組んでゐる宿なしたちも別に注意しなかつたし、

   交番所の年とつた巡査も怪しまなかつたところを見ると、その外來

   者は、この土地に適した顏かたちをしてゐるのだらう。さう云へば、

   實は彼は東京に住む小説家であるが、批評家たちがいつでも口癖の

   やうに「彼にはルンペン性があつて、どうもよくない」と眉をしか

   めてゐるのも思ひ當るふしがないでもない。――しかし、彼はこの

   寒さに何の氣紛れからして、あんなに物思ひに沈んだ表情でこの地

   帶を行くのかと、人は問ふかも知れぬ。それは過去をなつかしむ感

   情に驅られた結果である。と云ふのは、彼はこの街で生れ、十二ま

   で育つたのであるが、ほんの三日前、ここで彼を手鹽にかけて大き

   くした母親が急死し、その追憶の念が、彼の足を知らぬうちに、こ

   ちらへと向けさせたわけである。もとより彼はまだ年少で、自分の

   激情を制するすべもわきまへぬ男故、要もないかうした夜歩きや感

   傷癖を許してやつてもよいだらう。

    すでに、街から醗酵する特殊な臭ひは聯想作用を起して、彼の胸

   に種々な過去の情景を浮びあがらせ、彼はそれに簡單に陶醉して了

   つてゐたので、その尖つてゐる眼もいつに似ず柔和に光り、何も見

   てゐないに近かつたのである。唯、去來する思ひが――たとへば、

   袋物工場に通つてゐた母親が、夜も休まず石油の空箱を臺にして

   (その箱の隅には小さな蜘蛛が綿屑みたいな巣をかけてゐた!)セ

   ルロイド櫛に、小さな金具の飾りをピンセツトで挾み、アラビアゴ

   ムと云ふ西洋の糊でつける仕事をしてゐる横に、新聞紙にくるんだ

   芋が置かれてある有樣や、そして、その芋は彼女の夕飯代りなのだ

   が、夜更けると子供たちが腹をすかせるので、彼女は大半を殘して

   置き、子供たちがせびると「何云ふねん、こらおか┳ゝ┓ん┳ゝ┓

   のや」と云ひながらも分けてやり、または、その飾り附けの出來あ

   がつた櫛を十歳の少年である彼と共に大きな重い風呂敷包にして、

   大園町の問屋に運ぶ時の手だるさやら、そんな稼ぎものの彼女にも

   係らず、ある夜は鴉金屋の親爺に罵られて(彼が今にいたるまで鴉

   ┳ゝ┓金┳ゝ┓の名稱を忘れずにゐるとは何と云ふ因果なことであ

   らう。それは朝貸出した金が夕方には利子をくはへて元の巣へ飛戻

   つて來る。――鴉のやうに、と云ふので、さう呼ばれてゐた。一圓

   を借入れると、先づ十錢は天引、手取は九十錢であるが、その後一

   圓の五歩の利息を加へて、八日間に返濟しなければならぬ)彼女は

   しかたなく、片隅に積んであつた小便臭い家族たちの蒲團を頭にか

   ついで外へ出て行くと、その頃流通してゐた十錢紙幣の油じみたの

   を持つて歸つて來たが、その夜の明け方の寒さやら、或は、ぐうた

   らな遊び好きの少年であつた彼が、尾上松之助の侠客物が見たくて、

   彼女に嘘をつき金をねだり、すると彼女はまた思ひ餘つて、卷いて

   ゐた帶を解いて絣の前掛だけになり――帶は彼の入場料になつて、

   彼は活動寫眞に感激した餘り、二階の上りつぱなの壁に、墨で以て、

   眇眼の屋上松之助の似顏繪を大きく書いたり――

    妙なもので、遠い以前の習慣を、足は忘れずにゐて思ひ出したも

   のか、無意識にふと立ちどまり、そこで小説家がはつとして眼を轉

   じるならば、ちやうど彼が生れて育つた家の、路次先まで來てゐる

   のであった。雨にベタベタに濡れて光る浪花節のポスターが、床屋

   の表にぶらさがつてゐるが、その横を折れて二軒目がさうである。

   ――この床屋も代が變つたであらう、彼はいつも小僧のために「虎

   刈」にされてゐた。今夜はもはや客がないと見え、ガラス戸を閉め

   て、白いカーテンを張りめぐらしてあるので、内らは覗けぬ。

    路次に入ると暗がりで、軒並みの家々の影も、永い年月が經つて

   ゐる故、古びて歪んでゐるやうに思はれ、しかもどこもしんとして

   靜かなのが、少し小説家にはよそよそしく感じられないでもなかつ

   たが、懷しい場所に再び立ち入つたことで、彼の氣持はすつかり滿

   足してゐた。――自分が十二年もゐた家に、今は如何云ふ人が住み、

   如何云ふ生活がなされてゐるかと、想像するのは、甘い樂しみであ

   つたから。

    すると、彼はその家の戸口に女が出て來たのを認めたのである。

   それは恐らく、そこのお神さんで、外出しようとするのだが、雨は

   まだ止まぬかと模樣を見てゐるのだらうと、察した彼は、迂闊に佇

   んでゐたりして、不審がられるのを恐れ、わざと、もちろん軒燈も

   ないから見えるはずもないが、隣家の表札に眼を近づけたりするの

   であつた。だが、それは無效であつたと云へる。女は片足を踏み出

   すと、突然、彼の袂を――それから身體全體を抱へるやうに掴へて

   了つたのである。そこには必死な抵抗すべからざるものがあつた。

   驚きと怖れから、小説家は身をもがいたが、慣れた――たしかにさ

   うすることに慣れた、特殊な技巧のある女の兩腕は強くて離れず、

   それではこの女は、とすぐに彼は氣がつかぬでもなかつたものの、

   まだ半信半疑のうちに、もはや土間にひきずり込まれてゐて――そ

   こに、昔の彼が顏を洗ひ水を飮んだ場所がちらと見えたかと思ふと、

   どんと揚板の上へあげられ、更にむりやりに尻を押されて、つまづ

   きさうになりながら階段に足がかかる時には、やつと一切を理解し

   得たので、少しの落ちつきも取りもどし「おい、さう押すなよ、危

   い」と、女の方を――化粧した吹出物のある顏を振りかへつて云ひ、

   それからひよいと正面に向き直ると――彼の眼には、二階への昇り

   下りにしめつぽい手垢ですつかり黒く汚れた壁の上に、まぎれもな

   く彼の筆になる尾上松之助の似顏繪がはつきりと殘つてゐるのが、

   うつつたのである、うつると同時に一種の感慨に胸をせめつけられ、

   急に酸つぱい氣持がこみあげて來て、不覺にも尾上松之助はぼうつ

   とぼやけて了ひ、女に抗つてゐた身體の力もそのまま拔けて了つた

   やうな氣がした。

    女は、まだ雨しづくの垂れさうなコーモリ傘と泥を齒の間に挾ん

   だ下駄とを敷居の上に寢かせてから、高くつつた黄色い電燈の光を

   裏から受けてゐるので埃の浮いて見える歪つな日本髮の頭を傾け、

   彼の樣子を――今にも泣き出さんばかりのその表情を、けげんさう

   に、打守るのであつた。もちろん彼女には譯はわからず、この何と

   云ふ氣弱な男であらう、淫賣婦に有無を云はさず亂暴に引張りあげ

   られたのを、どぎもを拔かれ、後悔してゐるのかと、考へたかも知

   れぬ。そこで彼女も少し飽氣にとられ、ぽかんとした顏で、寒さに

   齒をガチガチも打鳴らしながら、

   「すんまへん」と、云つた。――それから、氣の毒さうに、彼の方

   へ掌を差し出したのである。

    小説家は、彼がこの家で生れたこと、あすこに見えるあの落書こ

   そは彼の手になるものであること、しかも、思ひ出の積つてゐるそ

   の建物は、今は淫賣婦の仕事場になつてゐること――それらを、彼

   女の前に語り出したくなつたほど、感傷に溺れきつてゐた故、女の

   請求をはねつけるだけの勇氣もなく、一體何ほど與へればよいか、

   と細い聲で質問するのであつた。

   「すんまへん」と、また彼女はあやまるやうに云ひ、――「五十錢

   やつとくなはれ」と態度は柔しく嘆願するのであるが、その精神に

   は、今にも彼の懷中に手をさし入れるばかりの執念深さがあつた。

    彼が、どうかして母や弟妹をこの窮乏から救ひ出したいものと、

   來る日も來る日も考へつめてゐたこの三疊の部屋は、薄い雨戸を眞

   中に立てて、二つに區切られてゐ、あちら側にも人の動く氣配があ

   つたが、ちやうどその時、その中から口爭ひをはじめた男と女の聲

   が聞えて來たのである。

    ――女の聲がののしるには「そんなあほらしいことできるかいな

   ――そんなことはなア、十錢淫賣のとこでも云ふとくなはれ、うち

   はちとちがふ!」と、云ひ、見そこなつては困る、あほたんめと、

   附け加へるのであつた。――小説家は、その言葉に氣をとられなが

   ら、それでは隣りにゐる女も五十錢の口なのであらう、だから、十

   錢のものよりも格式を以て客に望んでゐると云ふわけであらうと考

   へ、妙なところに、――人はどん底まで來ても、まだこれより卑し

   い下┳げ┓のものが存在するのだと自分を慰めて、高い心を失はな

   いでゐることに、感心してゐた。――しかし、相手の客は、嗄れた

   聲から察するとかなり年配らしいが、なかなか承知しないと見え、

   諍ひは益々烈しくなつて、果は彼らの身體が雨戸にぶつかり、今に

   もその頼りなく、がたつくし┳ゝ┓き┳ゝ┓り┳ゝ┓は倒れさうに

   動くのであつた。――それをこちらの女は、實に無關心な表情で見

   てゐたが、暫くすると、お前はどうしても暴れる氣か、それならば、

   ちよつとこちらへ來てくれと、別の男のへんに調子の低いおどかし

   聲がして、ぐづねてゐたのは「よし、歸つたる、歸つたら文句ない

   やろ、五十錢かへせ」と喚きちらし、女は女で息をはずませて肝高

   く――「一旦もろたもんが返せるもんか」なぞと叫びつつ、やがて、

   彼らはガタガタと階段をころがるやうに下りて行く音がした。――

   いや、階段は小説家の坐つてゐる側にあるし、そしてこの小さな家

   にそれが二つもあつたはずはないと、彼は怪しんで背延びをし、雨

   戸越しに、何やら取り散らけた喧嘩の現揚を見るのであつた。する

   と、あちらの壁が無慘にくり拔かれてあつて、洗ひ晒しの浴衣地を

   カーテンみたいにしたのが、汚く垂れさがつてゐ、隣家の二階と通

   じてゐるのが分つたのである。では、隣りも同樣かうした宿になつ

   てゐるのかと、彼は、そこに住んでゐた荒木と云ふ葬式人夫の一家

   や、恐しく出つ齒であつたが秀才で、今宮の職工學校に通つてゐた

   息子のことを思ひ浮べるのであつた。――

    それから、女は小説家の顏をちらとのぞき、そこに敷きつぱなし

   になつてゐる薄く細長い、淺黄の蒲團の上に倒れて見せた。――彼

   はそれには及ばぬと、幾度も繰りかへして説明しなければならなか

   つた。しかし、女はなかなか承服せず、執拗に誘ひの言葉をかける

   のである。彼女は、男とはそんなものではないと十分悟つてゐるや

   うにふるまつてゐたので、無爲に金を拂ふのを想像できなかつたの

   であらう。

   「それではすんまへん――錢もろといて遊んでもらはなんだら」と、

   又も云ふのであつた。それは勞なくして賃銀を受取ることを恥づか

   しく思ふけなげな心持からと云ふよりは、寧ろ、彼が遊ばないのを

   口實に全額でなくとも、五十錢の何割かの拂ひ戻しを請求しはしま

   いかと、恐れたが故であつたやうだ。

   「ほんまに、えらいすんまへんな」と、やつと彼女は納得して云つ

   たが、それでもまだ――「ほんまにかましまへんか」と、尚も云ひ

   ながら、そこに坐り直すと、バツトの箱から吸ひさしの煙草を出し、

   ちやうど彼が點けた燐寸の火に、頭をかゞめて、吸ひづけるのであ

   つた。赤つぽい髮の毛や、垢ずんだ首の皺や襦袢の襟が近づき――

   しかし、その時、彼は何か發見したやうな眼つきになり、ぢつと彼

   女の身體つきを檢べ、跳め廻したのである。

    女の煙草は短かゝつたので、すぐになくなつた。小説家は自分の

   箱を荒れた疊の上に置いて、一本つけては如何かとすすめるのであ

   つた。だが、女は女らしく遠慮して

   「五十錢たゞもろて、その上、煙草のませてもろたりしては――そ

   れこそ、冥加につきます」と、辭退して手を出さなかつた。それ位

   いいぢやないかと、尚も彼が云ふと、強情に身を引かんばかりにし

   て、

   「いいえ、いけまへん」と、しほらしい表情をして見せたが、急に

   彼は自分の觀察が誤つてゐるか如何かをためしたくなつて、何の惡

   い氣もなく、

   「あんたは、女とちがふな」と云つたのである。それを相手は隨分

   と意地惡くきいたかも知れなかつた。――どうして、そんなこと云

   ひ出したのだらうと、暫くの間、女は彼の顏を見つめてゐた。それ

   から、兩手を揉むやうにして、下うつむいて、嘆息した。

   「やつぱり――分りまつか」と云つて默り込み、それでもまた勇氣

   を取り戻したのか、

   「そやけど、今までに一ぺんも見現されたことはおまへなんだ、ほ

   んまだつせ――兄さんにかかつてはじめて――わ┳ゝ┓や┳ゝ┓く

   ┳ゝ┓やな」と、てれ臭さうに、力を入れて云つた。

    思つた通り男だつたのかと、小説家はうなづいたが、何とも分ら

   ぬ變な氣持になつて――「ほう、そいで」と云ひ出すと、相手はそ

   の顏色を讀んで、すぐ答へた。

   「ええ、ちやんと、そいで商賣してますねん、を┳ゝ┓な┳ゝ┓ご

   ┳ゝ┓としてな」と奇妙な陳述をするのであつた。小説家は飽かず、

   この相手を見てゐると、そいつは、女でないと云ふことが明白にな

   つてから、今までと著しく態度を變へた。すぼめるやうにしてゐた

   肩も張り、

   「ほんなら、一本いたゞきまつさ」と、遠慮を打捨て、手を出して

   煙草の箱を取つたが、その指も骨ばつて來たやうにさへ思へたので

   ある。そして、

   「もうとしですよつてに、身體が堅うなつてしもて――」と云ひ、

   問ひに應じて、二十歳であると云つた。

   「まだ子供の時は、これでも綺麗や云ふて、お客がたんとつきまし

   てな――なんにも知らんとな」と、女のやうに口へ手をやつて笑つ

   たが、急に煙草を揉み消すと、

   「あんまり、ゆつくり、ここにをられしまへん――何やつたら、わ

   てのホースにおいでやすな」と、彼(女)は小説家が奇怪な話に興

   味を持ち出したのを知つて、さう誘ひ、こゝでは部┳し┓屋┳き┓

   代をとられる故、散財をかけては濟まぬ、自分のところへ來い、と

   云ふのである。「ホース」と云ふは、「ハウス」か「ホーム」の訛

   りであるらしかつた。――「すぐ、そこだす、第二愛知屋だす」

    そこで、小説家は偶然なことから、彼の懷古心を滿足させ得たこ

   とを思ひ起し、今更のやうに、感慨深く部屋を見廻し、玩味し、剥

   げた壁や疊に、もはやかうした宿らしく人間の汁液が浸込み饐ゑた

   臭ひがこもつてゐるのや、天井の薄い板もところ/\外れて垂れさ

   がつてゐるのを、認めるのであつた。そして、再びその部屋を、樂

   書を見ることはなからう、と思つた。

    れいの女裝の男は階下へ、彼のために傘と下駄とを持つて行き、

   破れた障子の中へ首を突つ込むと、中の者に何やら云ひ、それから、

   大きな聲で、「おほきに」と、挨拶して、彼を促して、外へ出た。

    表通りの方へは行かず、「こつちから」と、露路の奧を突き拔け

   ると、木柵があつて、南海鐵道のレールが走つてゐ、ずつと遠く天

   王寺公園に當つて、エツフエル塔のイルミネシヨンが、暗い空に光

   を投げてゐる。――その黒い木柵の間を、彼(女)は着物も長襦袢

   もたくしあげて跨ぎ、危うおまつせ、と彼のために傘を持つてやつ

   て、案内するやうに云ふのであるが、もとより、小説家は子供の時

   に、そのレールの上に針金を寢かせ、電車の車輪にしかせてペチヤ

   ンコにしたり(彼はそれでナイフを作らうとしたのである)石を積

   みあげて、食物や道具を一ぱい載せてゐるにちがひない貨物車の顛

   覆を企てたことがある位だから、必ずしも見知らぬ場所であるとは

   云へなかつた。北の方から電車が進んで來、警笛を鳴らし、蒼白く

   烈しいヘツドライトはそれを避ける彼らの影を、雨に濡れた軌道の

   小石の上に大きく振り廻すのであつた。越えると空き地があり――

   その暗い中に、何やら人のざわめきがし、群れ集つてゐる氣配があ

   つた。

   「轢死人があつたんか知らん」と、女裝の男は云つた。――

   (こゝで、もう一度、小説家の煩しい回想を許してやりたいと思ふ。

   かつて、このあたりではよく人々が轢き殺された、彼らの生命が安

   かつたせゐかも知れぬ。夜更けてけたゝましい警笛が長く尾を引い

   て鳴り、急停車する地響きがあると、仕事をしてゐる手を休めて、

   彼の母親は「また誰ぞ死んだ」と云つたものである。その時は身に

   迫るやうな寂しさを子供は感じた。そして、朝になると、今彼らの

   眼の前にある廣場に、蓆のかけられた血のしたゝる屍骸が横つて、

   檢死の濟むのを待つてゐた。多くは無一物で、生きても死んでゐる

   者たちであつたが、ある冬の朝、近所のお神さんたちは、昨夜の轢

   死人は懷中に十圓もの金を持つてゐた、と噂し、そんな大金を持つ

   てゐながら、どうしてまた死ぬ氣になつたのであらうと、語つてゐ

   たので、それを聞いてゐた子供たちは大急ぎで柵をくゞり拔け、も

   しや、その不要な金を子供たちに分けてくれはせぬかと、一散に走

   つて行つたことである。)――

    處々高低のある、雨で軟くなつた土を、ごば/\と踏んで、彼ら

   は、人だかりの方へ近づいた。外套をすつぽり着た巡査が懷中電燈

   を照して色々と命令し、人夫風の男が、ぐつたりした老人の大きな

   身體を、寢臺車に擔ぎ込まうとしてゐた。それはトルストイのやう

   な顏をし、白い鬚を長く延ばした爺さんであつたが、なか/\重い

   と見え、人夫は白い息をふう/\と吐いて少し手古ずり、すると、

   人々の間から、白けた絆纏の浮浪者が出て――「爺さん、しつかり

   せえよ」と聲をかけて片足をかつぎ、黒い布被ひのある車へ載せる

   のであつた。そして、力なくだらりと垂れた老人の足からは、竹の

   皮の冷飯草履がぬげて落ち、垢ぎれでひゞ割れた大きなその足裏が

   氣味惡く、懷中電燈の光にうつし出されるのであつたが、れいの浮

   浪者は逸早く、草履を自分の足に――彼ははだしだつたので、ひつ

   かけた。すると、巡査は癪にさはつたやうに、「おい、おい」と頤

   を振つて注意し、――「そら、病院のや、いれとけ、いれとけ」と

   叱つた。浮浪者はすなほに、その病院の名らしく燒印の押されてあ

   る草履をぬぐと、肘で拭ふのであつた。何故なら、すでに彼の足の

   泥がつき、濡れて了つてゐたのである。少してれて、それを老人の

   足指にはめようとしたが、すぐ落ちてダメなので、人夫は默つてひ

   つたくり、車の底へ押し込んだ。

   「兵隊辰やな」と、女裝の男は、癖で齒をガチ/\寒さうにならし

   ながら、小説家に説明して云つた。その聲に、巡査はちらと、こち

   らを見たが、人夫が寢臺車の梶棒を握つて立ち上ると、「爺さん、

   もう戻つてくれるな」と云つた。さつきの浮浪者は、それに應じて、

   「旦那、兵隊辰はもう二度とこゝへ歸つてけえしまへん――今さき、

   觸つたらもう冷たうおました」と低く云つたが、巡査は苦々しい顏

   をした。――「困つたやつちや――わしの責任になるがな」そして、

   今まで、爺さんの寢臥してゐた蓆を靴の先で蹴り飛ばした。

    車はゆつくりと去つて了ひ、人々も散るのであつた。あとには、

   雨が再び寒く降りはじめ、女裝は、

   「おゝ寒むやこと、すつかり冷えこんでしもたわ」と、云つた。廣

   揚はもとの靜けさに戻り、あちらこちらに火が燃え、雨の中に明る

   さが溶けて見えるのである。それは浮浪者たちが、大きな穴を掘り、

   その中で物を――塵芥を燃しながら、その白つぽいむせかへるやう

   な煙の横に、うづくまつて、眠りをとつてゐるのであつた。

   「今晩は」などゝ、その穴の側を通りながら、小説家の同伴者は聲

   をかけ、

   「降つて困りまんな」と云ふのである。

    兵隊辰とは――歩きつゝ、彼(女)が語つたところによると、以

   前は軍人で、日清日露も兩方とも出征して勳章を貰つたが、心臟を

   患ひ、子供身寄もなくて、こゝまで零落したのである。最近は殊に

   衰へ、寢込んでゐたので附近の宿なしたちが心配して、慈善病院に

   入れるやう「旦那」に交渉し、そして入れたのであつたが、すぐと、

   不自由な身體をひきづつて、この空地へ立ち戻つて來た、驚いて連

   れて行くと、また、ひよろ/\と歸つて來、それを再三再四繰りか

   へしてゐたと、云ふ。

   「なんでや」と、小説家はたづねた。彼は、さうした慈善病院の官

   僚的な冷い有樣や、堅い寢心地の惡い木のベツドよりも、弱つた神

   經のうちから馴れた野宿を思ひ出すあの浮浪者魂のことを、考へて

   ゐたにちがひない。

    しかし、相手は、

   「なんでだつしやろな」と無關心に答へ――「寒い、寒い、――兄

   さん、お酒はどうだす」と、云ふのであつた。なるほど、廣場を過

   ぎたところに、燒酎屋があつたが、彼は、

   「さあ、金があるか知らん」と心配すると、

   「いや、大丈夫」と、女裝は力を入れて「おます」と、勝ち誇つた。

   先程、小説家が彼に五十錢與へた時、その財布の中を、のぞいて數

   へて了つたのだと云つた。それは商賣からして、無意識に行ふので

   ある。

    ――油障子を半分だけ閉めた中の、二すじの長いテーデルには、

   人人が――ボタンのない外套の上から繩をしめたのや、羽織もなく

   寒々とした黄色い顏の男や、伴纏にゲートルを卷いて、何か知らぬ

   が大きな風呂敷包を腰にくゝりつけたのや、眼脂で眼蓋のくつつき

   さうになり、着物の黒襟が汚れてピカピカに光つてゐる女やら――

   みんなすでに醉拂つてゐて、頭を重く垂れ、時々あげてあたりを睨

   むと譯の分らぬ叫びをあげて會話し――一切が不健康に濁り、空氣

   は淀んで腐つてゐるやうに見えた。小説家と女裝の男とは、あいた

   ところに腰をかけ、値段書のぶらさげてある背後の羽目板にもたれ、

   急に冷くなつた足先を土間で踏みならしながら、店のものが大きな

   コツプに燒酎をつぐ手許をぢつと見るのであつた。透明な液體は溢

   れて、木目のはつきりした汚いテーブルの上に流れると、女裝は口

   を近づけて吸ひ込み、舌なめづりするのである。更に彼は媚びるや

   うに小説家を見てから、艷つぽい聲で店員に註文を發すると、豚の

   腎臟をそのまま薄く切つたのが鹽を副へて持つて來られ、彼(女)

   は指でそのべろべろした血のかたまりみたいなものを、つまみあげ

   て、彼に、

   「どうだす、ひとつ」と云ふのであつた。――「ちよつと臭┳かざ

   ┓がしますけど、通人の食べものだつせ」

    さうかも知れぬ。しかし、小説家は手を出すことをしなかつた。

    やがて、簡單に醉ひが身體に廻ると、興奮して女裝は、多辯にな

   り、ハンカチを出して胸にあてたりして、口惜しがるのであつた。

   それは、またしても、彼(女)が今まで本當は男であるのを發見さ

   れたこともなく、――また眞實女であつて、その他の何ものでもな

   いと、自分自身も永い間信じきつてゐたと云ふことで、縷々として

   つきなかつた。彼(女)はその日常生活の末々端々にいたるまで女

   子として行動し――そして賣春婦として存在することによつて、一

   家三人が第二愛知屋(木賃宿)に一部屋を借り受けてこの數年暮し

   を立てて來、もちろん、その弟で十四歳になるのも昨年あたりから

   女┳ゝ┓に┳ゝ┓な┳ゝ┓つ┳ゝ┓て┳ゝ┓、客をとることを覺え、

   彼らの母親はかなり樂になつたが、――「やつぱり歳のすけないの

   は、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もうわてら

   と較べもんにならん位、よう賣れます」と、感心して、彼は云つた。

   その弟が先日警察の手入れであげられ――そこで、肉體を發見され、

   釋放される時には、折角延ばして結つてあつた髮の毛を短く刈り取

   られて了つた。――「早う生えてくれんと、商賣でけしまへん、ほ

   んまに無茶しよる」と、彼は憤慨して抗議した。「そんなことする

   罰は法律にはないさうだす」と、彼は知合の――同じく第二愛知星

   に宿泊してゐる辯護士(!)に聞いたと云つた。色々と話の末、彼

   (女)は今後も完全な「女」として生きる決心を告げ、(さうした

   女としての暮し、その衣裳、殊に下着や腰にまとふものを身體につ

   ける時の悦びを興奮した調子で彼は語つたが、妙な商賣の思ひつき

   から、すでに救ふべからざる倒錯症にかゝつてゐることを證據立て

   た)――最後に、

   「かうなつたからには、意地でも、どうかして、子供を産んで見せ

   ます!」と、斷言したのである。小説家は、その言葉が單に彼(女)

   の醉ひから無責任に放たれたものではなく、本當にさう信じてゐる

   らしいのを見て驚いた。

   「なに、子供を産む――何ぬかしてんね、ど淫賣の癖に、ふん、父

   無し子か!」と叫んだものがあつた。奧の方にゐてボタンの一つも

   ない外套を着た男であるが、とつくに醉ひ倒れて、テーブルに兩手

   を投出して眠つてゐたのに、さう呶鳴ると立ちあがり、彼らの方へ

   危げにやつて來た。

    皮膚の上に、もう一枚皮膚ができたやうに、垢と脂とで汚れきつ

   てゐるが、眼蓋や唇のぐるりだけ、黒ん坊みたいに隈どつて生地の

   肌色が現れてゐた。――彼はたしかに、さう聲をかけたのを機會に、

   小説家の方へ來て、燒酎をせびらうとしたのである。それは、すぐ

   「産むなら、なア、この旦那の子供を産めよ――ほんまやぞ、なア、

   旦那」と云つて齒を出してお世辭笑ひしたのでも分つた。ところが、

   彼は今一ぱいの燒酎が咽喉をよく通らないほどになつてゐて、酒は

   だらしなく、口から涎のやうに流れ、コップはぽんとテーブルの上

   に投げられ、ころがるのであつた。

   「なア」と、彼は聯想するやうに云つた。「なア、ほかのやつの子

   を産むな、間男の子なんか産んでくれるな」――

    それから、彼は急に泣き出して了ひ、「わいの嬶は、間男しやが

   つて、そいつの子を産みやがつて」と鳴咽したが、やがて濡れた顏

   をあげると、

   「何もそんなこと、最初から分つてたんや、わいは、大體、女の癖

   に新聞讀んだりするやつは好かん」と、そむかれた彼のお神さんの

   ことを罵つた。

    その云ふことは前後取りちがへてゐ、呂律も廻らず、そのまま文

   字にうつすこともならぬが、彼が若い時、郷里へ歸つて貰つた女房

   を連れ、大阪へ戻る途中、花嫁である彼女が姫路のステーシヨンで

   新聞を買つて、讀んだと云ふのである。「わいさへ新聞みたいなも

   ん讀んだことあれへんのに」――そこで、實に彼は癪にさはり、生

   意氣に思へたので、すぐにそのまま引き返へして、離縁しようかと

   一時は考へたが、せつかく人手を煩はし、世話して貰つたのにと、

   胸を撫でて我慢した――それがいけなかつた、やはり、新聞の一つ

   も讀まうかと云ふ女は「學問」を鼻にかけ、他に男をこしらへて出

   奔して了ひ、自分の觀測に誤りなかつたことを思ひ知らねばならぬ

   やうな始末になつたのである。――

   「ああ、やけぢや」と、彼は結んだ。

   「兄さん、大分廻つてる、苦しさうや」と、女裝は云つた。すると、

   「あたりまへや」と、何故か彼は「女」には荒々しく云ひ、もう二

   日も前から飯を食つてゐないことを告白して、青い顏をした。小説

   家は、もしさうなら、如何に酒好きであるにしろ、燒酎なぞ飮む金

   で何故腹をこしらへなかつたか、と責めるのである。ひよつとする

   と、これは昔このあたりによく見かけたアルコール中毒かも知れぬ、

   と彼は考へた。

    すると、外套の男は腰紐代りの繩に手を入れ、しごきながら、

   「ほんまのこと云うたろか」と云ふのであつた。小説家は云つてく

   れと云ふ顏をした。

   「そりゃ、さうや、さうや、旦那の云ふ通りや、誰が錢持つてたら、

   空き腹に酒なんかあふるもんか、米のめしがほんまに戀しうてなら

   んわ――をとついも飯食ふたんやあらしまへん、觀照寺で接待ある

   云ふよつてに、伊原つれて出かけたら、それが、うどんの接待だす、

   伊原に、お前、わいに半分殘しとけ云ふたのに、あの狸め、ちよつ

   とも餘さんと食ふて了ひよる――なア旦那、大體伊原に、觀照寺で

   接待あるよつてに行こか云ふて誘ふたのは、わいだつせ、知らんと

   ゐたらうどん一すじも口に入らんとこや、なア、そやのに、恩知ら

   ずめが、どうだす、禮儀の知らんこと、後輩の癖にわいより先にお

   汁をかけて、ちよつと殘しといてと頼んどいたのに、どんぶり鉢の

   はしも噛る位綺麗に食ふて了ひやがんね、――それからと云ふもの

   は、まる二日、仕事もないし!」

    彼の後輩である伊原が何ものであるかも、また彼の仕事がどんな

   ものであるかも、醉拂ひは説明しなかつたが、そのたどたどしい獨

   白に、この店の中で、強い燒酎に痺┳しび┓れた頭をかゝへたもの

   たちは、ひそかに白い吐息をして、耳を傾けたのである。

   「わいは、何のはなししてたんやつたかいな、――そやそや、旦那

   は酒飮む金で飯食へと説教してくれはつたんやつたな、どうも、お

   ほきに」と皮肉に口を歪め、「そやけど、ほんまのことを云ふとや

   な」と、語り出した、――彼らはどんなに空き腹を抱へてゐても、

   人にめしを食はせてくれ、とは云へないのであつた。何故ならば、

   誰も彼も自分だけが食ふのが精一ぱいで餘裕は更にないので、しか

   も頼まれたら、すぐに、足りないものも半分は分けてやらねばなら

   ず、――だから、そんな人の豫定を狂はし迷惑かけるやうな依頼心

   を起すのは道徳的ではないと、されてゐる。そして、もしも誰かが

   景氣よくて(景氣よくて!)すつかり氣が大きくなり「おい、酒の

   ませたろか」と誘はれた時にも「酒の代りに飯をおごつてくれ」と

   は云へないものだ、と外套はしみじみ述懷した。それは一つには、

   虚榮心もあつたし、また折角相手が酒で愉快になつてゐる氣分をぶ

   ちこはすに忍びないからであつた。――だから、今夜のやうに酒だ

   けで腹をこしらへてゐる時もある!

   「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけと、云へまつか、めし

   一ぱい頼むとは」と彼が云へば、夜更けの醉拂ひたちは口々に、

   「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首を振るのであつた。――

   小説家は、そこに浮浪者につきものの、さやうな貴族精神を見て、

   悲しく思ひ――さう云ふはなしを俺にするからには、俺にめしをね

   だつてゐるのだらう、と云ふと、

   「あたりました」と答へ、「なんでや、見榮があるやろ」とからか

   ふと、「あんたは、旦那やよつてに、かめへん」と、尚も小説家を

   悲しませるのである。

    それから雨中に、のれんを排して出た女裝の男は、頬に雨滴をあ

   てゝ、

   「おお、冷┳ひや┓こ、ええ氣持やこと!」と叫び、酒に委せて外

   套の浮浪者にしなだれかゝると――「ちつ! わいは女はきらひや」

   と、かれは忌々しげに舌打ちし、その手を拂つて、どんどん先に立

   つて行くのであつた。

   「上等の店、おごつて貰ひまつせ」と、彼は云つて木賃宿の裏手の

   狹い道を――そこから、薄暗い部屋に親子夫婦たちがくるまるやう

   にして寢てゐるのが煤けた格子窓越しにのぞかれ、また、戸締りの

   してない裏木戸からは、列んだ便所の戸がどれも開いてゐるのが、

   陰氣臭く見えるのであつた。

    めざす店はまだ起きてゐた。

   「芋粥くれ、おつさん」と、外套は呶鳴つた。吹きながら、人々の

   手垢で黒くなり、塗りの剥げた箸で、煮込のやうな粥を咽喉に通し

   ながら――「なんやて、明日ハ十五日ニツキ アヅキガイ二錢 モ

   チ入アヅキガイ三錢――よし來た、おつさん、今晩は旦那がついて

   る、餅入小豆粥一つ呉れ」と、壁に張つた紙ぎれを讀んで云ふので

   あつた。

    絣の筒袖を着、汚れてはゐるが白の前掛をかけ、茶つぽい首卷を

   した主人は、媒の垂れさがつてゐる釜の側で、煙管をくはへてゐた

   が、

   「こら、あしたや、けふはあかん」と、ぶつきら棒に返事した。

   「あしたやて、ふん、あしたと云ふ日があるならば」と浮浪者は節

   をつけて應酬をして、「こら、見い、もうぢき、十二時やぞ、そし

   たら、あしたや、待つてたろ」と、箸をあげて、棚に置かれてある、

   アラビヤ數字のいやに大きいニツケルの眼ざまし時計を、指すので

   あつた。主人は冷く、相手にしなかつたので、彼はまた呶鳴りちら

   した。

   「こら、わいの云ふことが分らんか、こら、人殺しめ!」

   「なに云ひなはんねん、そんなこと」と、女裝が驚いて制止すると、

   「うるさい、女は默つとれ」と、彼は邪見に唸つた。それでも、主

   人は身動きもせず、白い眼で見るだけで、――その眼が「このルン

   ペンめ、そんなこと云ふと、もう、うちの粥食はさんぞ」と云つて

   ゐるやうに見えたので、外套は、がくりと首を垂れ、

   「いや、ほんなら、芋粥お代り」とおとなしく云つて、うまさうに、

   かぶりつくのであつた。――

    彼が粥屋の主人に向つて、人殺しと罵つたのは,何も理由のない

   ことではなかつた。その店を出ると、そんなことを云ふなと止めた

   くせに女裝の男が先に立つて、問ひもせぬに小説家に語つた所によ

   ると、――もう二年にもなるが、その秋のちやうど夕飯頃、あの店

   が粥を食ふ零落者で混んでゐた時、ある男が(外套は、あら、田邊

   音松や、やつぱり、わいの友だちや、と云つた)――その田邊が二

   錢拂つて出ようとすると、主人は三錢置いて行けと請求し、何故か

   と聞けば、一錢の漬物を食つたから、と云ふので、田邊は驚き、い

   や、そんな覺えはない、と云ひ張り、この漬物皿は横にゐたやつが

   平げたのやと述べたが、主人は更に聞き入れず「食つた」「食はぬ」

   と爭ひになり、果ては、田邊がどんと胸をつかれると、惡いことに

   空き腹がつづいて、力の拔けてゐた彼は、そのまま仰向けに倒れて

   敷石で頭を打ち――そして、もう二度と動かなかつたのである。調

   べた結果、頭蓋骨が折れたのが死因と分つた。もちろん傷害致死で

   主人は行つたが、それも三四ケ月すると、もう店を開いてゐたと云

   ふ。――外套は力んで、「今に仇をとつたる」と云ひ、「そやけど、

   あすこの芋粥はほんまにうまい」とほめて、そんな店を潰すに忍び

   ないと云ふやうな顏をした。

    話が終ると、突然、外套は「おほきに、御馳走さん」と云ふなり、

   眠つた低い家々の間を、そこには雨の中に傘をさして淫賣婦たちが

   辻々に立つてゐるのであつたが――駈出したのである。

   「待て!」と、小説家は呶鳴つた。寢るところがあるか、と心配し

   たのである。

   「今夜は、腹も張つたし、酒ものんで、ええ按配やよつてに、その

   勢ひで野┳デン┓宿┳デン┓する」と、相手は答へ、尚も走りつづ

   けようとした。

   「待て!」と再び小説家は云つて、幸ひこの「女」がすすめるから、

   一しよに第二愛知屋に泊らう、と誘ふのであつた。

    すると、不思議なことが起つた。――今まで、いやに辛く女裝に

   當つてゐた外套は急に叮寧な言葉づかひになり、

   「姉ちやん、えらいすんまへんな、屋根代もなしに、厄介になつた

   りしまして」と挨拶するのである。――思ふに彼は彼の逃げた妻君

   以來、女にはよからぬ感情を抱いてゐたので、自然、女裝に對して

   も冷かな態度を取つてゐたが、今は彼(女)は部┳ま┓屋┳ど┓主

   ┳もち┓になつたので、その點から禮儀をつくしたのである。

    その證據には、彼が彼女の「ホース」に行きついてからは――大

   戸をガラリとあけて女裝が帳場に坐つてゐるキナ臭い中年の男に、

   「頼んまつせ」と申人れた時も、うしろについて彼はぺこぺこと頭

   をさげたし、また廣い階段の途中ですれちがひ、彼(女)から、

   「今晩は」と、呼びかけた、赤い顏に鬚を蓄へた、しかし、口のあ

   たりに何やら卑しい腫物の出てゐる、袴をはいた男にも、外套は腰

   を折らんばかりにお辭儀するのであつた。その袴の男を、あれが、

   辯護士だす、と女裝は云つてきかせた。――

    彼(女)の部屋では、浮浪者は益ゝ小さくなつて隅の方に坐り、

   しきりとボタンのない破れ外套の前を合せ、卷いた藁繩をはづかし

   さうに觸れて見るのである。そして、すでに寢てゐる弟や(なるほ

   ど、その髮の毛は最近に散切りにされたあとがあつたが、少し延び

   かゝつてゐ、ちやんと女風の長襦袢の肩を見せて眠り、日頃のたし

   なみを見せてゐた)また母親に(彼女は二人の外來者を無言のまま

   ぢろぢろと觀察した)――突然夜半に訪れたことを、幾度も繰りか

   へして謝するのであつた。――

    それほどだつたから、朝になり、みんなが眼ざめた時、すでに遠

   慮深い彼の姿は消えて、見られなかつたが、誰も不思議にも思はず、

   眠つてゐる者たちを驚かさないやうにと、跫音を忍んで、部屋を出、

   やうやく白んで來た空を仰ぎながら、その「仕事」に出かけた彼を

   想像するのであつた。

    ――それは三疊に足らぬ部屋であつた。押入はなく、埃で白い二

   三の風呂敷包、バスケット、土釜、鍋鉢の炊事道具の類、それに小

   さな置き鏡、化粧水の瓶なぞが棚を吊つて載せられてあり、壁には

   りつけられ、一方の隅の破れてゐる新聞附録ものらしい美人畫は、

   彼ら兄弟の扮裝のモデルであらう。

    彼らと雖も勞働者の子供たちであつた。「田舍から來た鍛冶屋だ

   す」と、小説家の問ひに對して答へ、父親の働いてゐた日の出鑄物

   工場は今でもこの近くにあるが、彼は早く火傷で倒れ、母親も白粉

   工場に永年つとめ、そのために中毒を起して片手はまるきり動かぬ、

   と云ふ。――地方から都會に出て來た勞働者が、すでにその二代目

   に於て、貧窮と不衞生と無智とによつて腐つて了ひ、かうした人間

   の破産状態のうちに生活してゐるわけである。――

    朝になると、小説家は、もはや彼らと別れを告ぐべきであると思

   ひ、猫みたいに荒い銀色のヒゲの二三本生えてゐる老婆の顏を見な

   がら、女裝の男に、昨夜の部屋代の一部を負擔しようと申出た。す

   ると、彼(女)は、手を振り、口を押へて笑ひながら、

   「それはもう、ちやんと、兄さんがお寢みのうちに、もろときまし

   た」と、云つた。ひよつとして、小説家がそのことに氣が附かずに

   歸られては、と彼(女)は恐れたのであらう。

   「いくら拔いた」ときけば、「五十錢」と返事した。

    母親は「御飯でも食べて行つとくなはれ」と、お世辭を云つたが、

   それは嘘であらう。

    雨はあがつた、しかし、陽の光りは射さなかつた。――小説家は

   表へ出ると、昨夜の出來事や、逢つた人々を思ひ出さうとしたのだ

   が、何だか、ぼんやりとしか浮びあがらなかつた。電車の狹いガー

   ド下で、そこは誰彼となしに小便すると見え、コンクリイトは濕氣

   で壞れ、白い徽やうのものがひろがつてゐるが、烈しい臭氣に彼も

   亦、そのことに氣がついて、小口貸金手輕に御用立てます、と云ふ

   廣告を讀みながら、排泄するのであつた。そこを拔けると無料宿泊

   所があり、そのあたりには、午前中からもう夜の宿の心配をしなけ

   ればならぬ浮浪者たちが、いつでも事務員が出て來て受附けるなら

   ば、すぐ列を作つてならべるやうに支度をして――蹲つて考へたり、

   立ち話をわいわいやつてゐた。小説家は、そのあたりが葱畑であつ

   た時のことを、思ひ出してゐた。――

    それらの浮浪者相手に僅かの商賣をする露店が立つてゐ――魚の

   骨や頭を、野菜の切れ屑なぞと一しよに鹽で煮込んだのやら――そ

   れは暖かさうに泡を立て、灰汁やうのものを鍋の表面に浮かべてゐ

   たし、また、すし屋の塵芥箱から、集めて來たらしい、赤い生薑の

   色がどぎつく染まつた種々雜多の形の頽れたすしやら――すべて、

   異臭を放ち、しかしその臭ひが宿なしたちには誘惑である食べ物を

   一錢二錢で賣つてゐるのである。それらにまじつて、古道具屋が二

   三軒、店を――店と云ふならば、小さな薄べりを敷いて、庖丁、釘

   拔、茶碗、ズボン下なぞをならべ、浮浪者の拾得物なぞも買入れて

   ゐた。中には一昨年の運勢暦が講談の雜誌と一しよに立てかけてあ

   るのもあつた。さうした古道具屋の一軒では、主人が仔細らしく老

   眼鏡をかけて、背の低い女が持つて來た風呂敷包を開いて、品物の

   値ぶみをはじめたので、要もない浮浪者たちは、その店先をかこん

   で、何や彼やと品物の批評をしたり、おつさん、もつと出したれ、

   なぞと云つて、女は少し上氣し、兩掌を頬にあてるのであつた。―

   ―風呂敷の中からは、佛壇の掛軸やら、浮浪者はそれについては

   「こら、眞宗のもんには持つて來いや」と云つたが、道具屋はふん

   と鼻であしらひ、それから男物の着物、さらし木綿の肌襦袢、軍手

   なぞが出、最後に、使ひかけの石鹸や褐色のハトロン紙の封筒が十

   枚ばかり出た時には、無一物の浮浪者たちも――「こんなもんまで

   賣らんならんとは、よくよくや」と、さすが低聲で囁きあつたので

   ある。家にあるもの、金になると思はれるもの殘らず、總ざらへし

   て、女は持つて來たのであらう。――

    彼女が金を受取つて歸ると、道具屋はもう一度、今の品物を一つ

   一つ手に取つて調べてゐたが、滿足して、それを、すぐ陳列するの

   であつた。それから、まだ立つてゐる小説家の方を、眼がね越しに

   見て、少し考へた後、

   「その傘はもういらん、けふは天氣になる、どや、買うたろか」と、

   云つた。小説家は、この親爺がコーモリ傘だけを賣れと云ひ、高齒

   の下駄のことについては言及しなかつたことに、雨はあがつたが、

   このあたりの深い泥濘を顧て、苦笑せざるを得なかつた。何か返事

   をしてやらうとした時に、ふいに、また彼を引張るものが――女で

   あつたが、煮込星の前まで連れて行くのであつた。――

    見ると、それは大きな肩掛をし、片一方の眼のいやに小さな、萎

   びた女であつた。小聲で――「兄さん、電車に乘りはりますやろ」

   と云ふのである。小説家は、その質問の眞意を捉へかね、横で煮込

   屋の釜の下の火にあたつてゐる宿なしたちがこちらを見てゐるのを

   意識しながら――「そりや、乘らんこともない」と云ふ風な返事を

   した。と、その言葉の終らぬうちに、荒れた皮膚の女は、短い指の

   中に握つてゐた電車の切符を、彼に押しつけて、六錢で買ふとくな

   はれ、と云ふのであつた。

    小説家はどうしたものかと思つたが、取りあへず、あすこの古道

   具屋に賣つては如何か、と云ふ旨を彼女に傳へると、

   「あいつら、無茶苦茶に値切りよりますがな」と云つて、きかなか

   つた。そこで、彼は仕方なく十錢白銅を出すと、彼女は少しもぢも

   ぢとして困つた樣子であつたが、相手が面倒臭くなつて、全部呉れ

   はせぬか、と期待してゐるやうでもあつた。――だが邪魔者が入つ

   た――「兩替したろか、赤錢やつたら、なんぼでもあるわ、重うて

   ならん」と云ふ聲が―れいの煮込鍋の下に身體を暖め、時々いい氣

   特にそこへ坐つたまま居眠りしてゐた、髮の毛の薄い少年であつた

   が、腹卷の中から、新聞紙に包んだ銅貨を出すのである。もちろん、

   彼は重いほど持ち合はせてゐるわけでもなかつた。――

    肩掛の女は六錢握ると、おほきにと禮を云ひ、考へて、少し離れ

   た、屑のすし屋で買ひ物をし、小説家の方をちらと見てから、小走

   りにガードのあちらへ、駈け去るのであつた。

    少年も亦、それを見送り、小説家の手に殘つた、よれよれの市電

   切符を指して、

   「ガゼビリめ、パス一枚でヤチギリやがつたな、――ほんまに不景

   氣なはなしや」と、説明するのであつた。

   「ふむ」と、小説家は咽喉をつまらせて、今の女の一生を思ひ、そ

   れから、少年を――その顏は、腫れあがつて赤味を帶び、眼も細く、

   破れた縞の着物の下には襯衣があるが身體中の瘡蓋のつぶれから出

   る血や膿にところどころ堅く皮膚にくつついてゐた、銅錢の紙包と

   一しよにボール紙を持つてゐて、――それには、この子は兩親も身

   寄もなく、しかも遺傳の病氣で困つてゐるから、どうかめぐんでや

   つてほしい、と云ふ意味の文句が、同縣人より、お客さま(!)と

   書き副へて記されてあつたのを見ると、彼は繁華な通りに出て號泣

   し、前に置いた箱の中へ、一錢の喜捨を乞ふ少年にちがひなかつた。

    彼は今の女に、不景氣な、と罵つた手前、自分が如何に景氣がよ

   いかを、誇り出すのであつた。――「こなひだもなアイノリ(二圓)

   になつた日があつたんやぞ――みんなオツチヨコチヨイで、オケテ

   しもたけどな」

    オツチヨコチヨイとは、あすこで、ラツコの襟卷をし、金縁眼が

   ねをかけた冷い眼の男が開いてゐるやうな、路上の賭博であると、

   彼はつけ加へた。

   「へえ」と、小説家は感心してやらねばならなかつた。

   「五十圓もウネツテたまつたら、病院に入つてこまそと思ふんやけ

   ど」

   「どこが病氣や」

   「どこが、惡いのかなア」と他人事のやうに少年は云ふと、

   「ほんまに、はよ、治しときや、手おくれになつてしもたら、あか

   んさかいな」と、氣がよささうな煮込屋の主人は、横から忠告する

   のである。

   「うん、さう思うてんねけどな」と、少年は、一錢ばくちで五十圓

   を勝ち貯める日がなかなか來ぬことを考へてゐるやうな眼つきをし、

   それから――「おつさん、モヤ一本頼む」と云ふと、

   「おいな」と、主人は胃散の大きな罐の中から、吸口をちやんとつ

   けたバツトを取り出して、一錢で賣つてやるのであつた。

   

    小説家はその夜、難波で、新聞記者某氏に出逢ひ、釜ヶ崎のはな

   しをすると、某氏は先日もこんなことがあつた、と語るのであつた。

   ――夜更けて、あすこの側にある警察へ、女の行路病者が擔ぎ込ま

   れて來た、醫者に見せると重い肋膜で、すでに手おくれになつてゐ、

   遂に死亡して了つたが、その次の日、彼女を扶けて連て來た男が來

   て、一度面會させてくれと云ふので、すでに、こと切れたと云ふと、

   わつと男泣きに泣き、餘りの愁嘆に、どうしてそんなに悲しむか怪

   しまれ、それでは何か知合のものででもあつたかとの訊問に對して、

   實は、それは彼の女房であつた、と告白したのである。彼は釜ケ崎

   の木賃宿に住んで磨き砂賣りをやつてゐるが、もちろん、稼ぎは思

   ふやうには行かず、それに女房が病氣になつて寢て了ひ、日に日に

   重ることが眼に見えつつも、施す手がなく、醫者も相手にしてくれ

   ず、瀕死の彼女は苦悶するし――遂に思ひ餘つて、女房を行路病者

   にしたてたと云ふわけであつた。

    新聞記者某氏は「ルンペンの夫は悲し、と云ふ物語や、どや、小

   説にならんか」と云つた。

    小説家は狡猾に笑つて何とも答へず、家へ戻つたが、それと彼の

   昨夜來の經驗とを織りまぜ、小説に作りあげて見ようと、決心した。

   そこで、手許を探して、市役所から出てゐる「大阪市不良住宅地區

   沿革」と云ふのを參考に讀みはじめたのである。

   

    ――現在の釜ケ崎密集地域も明治三十五年頃までは、僅かに紀州

   街道に沿ふて、旅人相手の八軒長屋が存在したるに過ぎない。

    その後、東區の野田某氏が始めて、勞働者向きの、低廉なる住宅

   を建設して、勞働者を收容したるが、尚當時に於いても依然として、

   百軒足らずの一寒村に過ぎなかつた。

    以後、大阪市の發展に伴ひて、下寺町廣田町方面に巣食つてゐた

   細民は次第に追ひ出されて南下し、安住の地を求め、期せずして、

   集團したるが、現在の釜ヶ崎にして、そこに純長町細民部落を形成

   するに到り、下級勞働者、無頼の徒、無職者は激増し、街道筋に存

   在する木賃宿は各地より集まる各種の行商人遊藝人等の巣窟となり、

   附近一帶の住民の生活に甚だしい惡影響を與へつつある。

    兒童の大半は就學せず、すでに就學せるものも、三四年の課程を

   終へれば登校せず、金錢を賭して遊ぶ子供を所所に見受ける。

    下水の施設なく不潔なること言語を絶するものがある。表側に於

   ては左程にも思はれぬとも、裏側に於ては、甚だしいものがある。

   上水の施設もないところ多く、井戸水を使用してゐる。――云々。

   

   (二月七日、朝。)

   著者:武田麟太郎
   表題:釜ケ崎
   時期:19330300/昭和8年3月
   初出:中央公論(筑摩書房・現代日本文學体系/70)
   種別:小説