今、釜ヶ崎に必要なもの
−第2回釜ヶ崎フォーラムの報告−
前号開催報告に引き続き、内容の報告を行います。報告担当:黒田伊彦
(1) 野宿者と釜ヶ崎労働者の人権を守る会は1997年10月26日午後2時〜6時まで、部落解放研究教育センターで、85人の参加により、第2回釜ヶ崎フォーラムを「今、釜ヶ崎に必要なもの」のテーマで開催いたしました。
<第一報告>
釜ヶ崎会館作りを
ありむら 潜(カマヤン作者)
今,福祉センターの労働組合の専門委員として、「釜ヶ崎居住問題懇談会」をつくり、私が事務局長を勤め「生きがいセンター」つくりをめざしている。居住というのは住宅だけでなく、公共空間・情報公開・職住接近など広がりのある言葉なのです。
トルコで開かれた国連のハビタット(人間居住会議)では「人々は全て居住を持つ権利」あると宣言しています。日本も国連に加盟しているので守る義務があります。釜ヶ崎内部で意見をまとめ、一年後にフォーラムを開きたいと思う。
「寄せ場」としての釜ヶ崎をどうするのか。今、業者の中では求職者を登録させて、電話で配置する方式が行われ始めている。26号線周辺の再開発進んでいます。また、西成区は高齢者対策のモデル地区になっています。あいりん総合対策検討委員会の街づくり(住環境部門)の答申もまもなくだされます。
私達が居住問題懇談会の学習会で学んだことは、住民のコミュニティが中心だという事です。
アメリカのデトロイトでは自動車産業の衰退によって仕事がなくなり、人々は郊外へ出て行き、住民のコミュニティも衰退する。仕事がなくなれば街は衰退し治安も悪くなります。
横浜寿地区の「ふれ愛センター」は市の4千万円の助成で1922年に着工し、入浴無料・カラオケ・料理教室もある。
釜ヶ崎にも住民のミュニティを育む「釜ヶ崎センター」が必要です。小さなネットワークをつくり、それを合わせて大きなネットワークをつくる「コミュニティワーカー」というスタッフをつくる必要があります。
釜ヶ崎でも、花づくり・パソコン・バードウォッチングなどを通じて人と人のつながりをつくる。また、料理教室で教える人、参加する人、そこへ仲間を誘ってくる人などが必要です。
<司会>労働を軸とした人間関係だけでなく、地域の中での人間関係づくりが重要」という提起でした。
*なお、この部分に関しては当のありむら潜氏より(他の用件でのメールのついでではありますが)次のような指摘がありました。
「なお、昨年10月(?)に部落解放センターで開いたそちらのフォーラムの場で私がしゃべった内容は、私のしゃべり方がヘタだったこともありまして、実際とかなり異なった内容にまとめられています。ただ、現在のところ実際的な影響があるわけではありませんので、このままにしておいてもらってかまいません。
本人からそのような指摘があったということだけご認識しておいてもらえば、それでいいです。今後ともよろしく」
(編集者ーご迷惑をお掛けして申し訳ありません。まとめに不手際があったようです。お詫び申し上げます。この部分は、会報現物にはない、1998.6.9に付け足したものです。
<第二報告>
野宿者と福祉施設の調査研究から
島 和博(大阪市立大学文学部教員)
1995-96
年の2年間、大阪市大の社会学実習で、野宿している人々の聞き取り調査を行った。1996年は236人から話しを聞き、「今何をしてほしいか」とたずねると80%の人が「仕事がほしいと」答えた。最近「釜ヶ崎は青カンしにくい」という。仕事がなくなると、特に高齢者は、釜ヶ崎で過ごせないのではないか。
センターで仕事がないので「釜」を出て行く。仕事があるときだけ「釜」にいるという状況で、しんどい時にみんなで共同して、遣り繰りして生活していくという労働者の結びつきが弱くなっている。「寄せ場」から「労働者の生活共同体」への移行が課題となっている。
自彊館と大淀寮で
60数人に話しを聞いたが、「自分のせいでこうなったので不満はないが、親しい友人がいない。トラブルの元になると困るので、深く付き合わないようにしている。」という。施設に囲い込んでいくということに問題があるのではないか。第一に仕事保障、第二に就労不能となっても生きていける場づくり、第3に施設の問題があるということだ。
<司会>「働き人」としての誇りだけでは、仕事から離れるとマイナスの「敗残者意識」に捕らわれてしまう。働き手としての文化だけではなく、もっと幅の広い立場で考えていくべきだ、という提起でした。
<第三報告>
出会いの家の経験から渡辺 宗正(出会いの家)
「釜ヶ崎オープンハウス(仮称)」の創設案を7年前につくり、図面も作成しました。建設地としては南海電鉄廃線跡地を考えています。
@規模は地下1階・地上10階、常時1,500人宿泊で、利用者ができるだけ早く自立して出て行けることを目的とする。
A滞在は一ヶ月を限度とし、延長も一ヶ月とする。
B施設の概要は――
地下1階は事務所、男女別の大浴場、低料金のコインランドリーとロッカールーム。
1階−現在三角公園東側路上の露店などが入る。300席のセルフサービス制大食堂を設け、残業で遅くなった人でも食べられるようにする。娯楽室と低料金の理美容室。
2階から9階は宿泊施設で、1部屋8名(2段ベット)が、各階24室。各階に職員宿泊室も設ける。
10階は図書室・スポーツトレイニング室・ギャラリー(展示室)・映画館(シアター)・カルチャー教室(英会話・パソコン・陶芸など)
屋上は男女別露天風呂・小運動場・温水プール。
各施設は宿泊者以外でも広く利用できるようにしたい。
施設はなるべく早くその役割を終えることを目指し、宿泊施設部分を2LDKの低家賃住宅として転用する。130戸位になる。
現在、居宅保護の一人あたりの支給額が年百万円強、千人居宅保護を地区内でおこなうと、10億円が地域にもたらされることになる。今の釜ヶ崎の状況では千人は極めて少ない数字である。
<司会>施設をなくすことを前提に、奪われた文字を自ら学ぶなど、労働者としての文化性・精神世界を確保できる場を作るべきだとの報告でした。」
<第四報告>
仕事を求めて
山田 実(釜ヶ崎反失業連絡会)
第一次オイルショック(1973年)後から仕事がなくなり、仕事保障期成同盟をつくって、「仕事よこせ」のムシロ旗を立ててデモをしたり、花園公園に立てこもったりしたが、現在も同じような状況にある。
1991年ごろ組合の中でも不況が予測されていた。それ以降今日まで、「仕事よこせ」の闘いが続いているわけです。最初のうちは、行政側が要求書すら受け取らなかったんですが、粘り強く要求を続け、高齢者対策の必要を認めさせて、とりあえず調査費を付ける所から高齢者清掃事業は始まったわけです。梅雨対策としてセンターの夜間開放も実施させました。
仕事があれば青カンをする必要はない。ダンボールのバタ屋をして働いている人は、施設に入ることを拒否している。みんな働いて生活したいのだ。
反失連でも自ら求職活動をしていくが、行政には「高齢者事業団」をつくれと要求している。鶴見緑地にある大阪市の分別収集によるガラス瓶の分別作業所は環境事業局のOBが働いているが、各区に分別収集作業所を作り、500〜600人の高齢者の雇用を創り出す要求を大阪府・市におこなっている。高齢者にいまさらパソコンの技能修得はできない。出来たとしても就労先がないだろう。生きがいとしては有効でも、生活を支える労働ということでは、やはりこれまでの労働体験の延長線上にある肉体労働・軽作業を追求していかざるを得ない。
<司会>釜ヶ崎の労働者が、高齢化・求人の減少などで苦境に立たされている現在、地域で生活するほかの人々も余波をこうむっているわけですが、これまでとは違った福祉のあり方、仕事の開発が、労働者以外の住民にとっても課題となっているとまとめたい。