野宿者と釜ヶ崎労働者の人権を守る会会報 第二号1997/3/30


差別のない街づくりのための

釜ヶ崎総合計画を考える研究集団として

本会の性格付けについて

 

藤本さんの死と質問状

会報の創刊にあたって、「釜ケ崎差別と闘う連絡会」から「野宿者と釜ケ崎労働者の人権を守る会」への発足に至る経過が簡単に紹介されている。その点に関して、少し述べておきたい。

この会ができた直接的きっかけは、野宿していた藤本彰男さんが道頓堀川に投げ込まれ殺されるという事件に触発されたことによる。

この事件はさまざまの問題を含んでいた。一見、行政は無関係に見えるが、間接的な加害者として行政の責任がある。そのことを問うために、11月に大阪市長選挙に際して、候補者に釜ケ崎対策・野宿者について、どのような政策をもっているのかを質問をした。それが「野宿者と釜ケ崎労働者の人権を守る会」の最初の行動であった。

当初、この会の発足にあたって、市民運動としての組織と研究組織とを分離していく方向を構想していた。しかし、会がまだそれほどの体制が整はない段階なので、未分化のままにきた。昨年8月に行った「ストップ・ザ・路上死、釜ケ崎フォーラム」は、それを現している。

釜ヶ崎フォーラムは「運動」と「研究」の接点

フォーラムは、釜ケ崎にかかわるさまざまに立場の人々が集い、野宿者・路上死の問題の背景にあるものを、さまざまに角度から切り込み、今何をなすべきなのかを明らかにしょうとしたものである。釜ケ崎の労働者、野宿者、総合センターの労働者、NPO、地元学校の教師、商店街、周辺地域住民、研究者、宗教者などさまざまな人が参加し、発言した。このようなさまざまの組織・団体、人をつなぎ、自由に意見交換し、議論する場を創る役割。これはフォーラム的機能とよべるだろう。それと同時に、フォーラムでは、参加者が最大公約数として確認できることがらを要求項目としてまとめた。これは、運動体的な行動である。

このように、8月の「釜ケ崎フォーラム」は、二つの性格を合わせ持っていた。

「会」の性格の明確化へ

しかし、当初考えていたように、市民運動団体としての活動と研究組織としての活動とを、分離すべき時がきた。これについて事務局会議で議論して、結論として合意できたことは、この会は、運動体ではなく、研究組織としての性格を明確にしていくことである。

それぞれの立場で

行政に対して要求する主体は、釜ケ崎の労働者や野宿者であって、われわれの会がすべきではない。われわれは、釜ケ崎の労働者や野宿者になり代わって、運動をするものではない。

われわれの会は、「野宿者と釜ケ崎労働者の人権を守る」という明確な方向性をもちつつ、野宿者と釜ケ崎労働者に対する差別や生活の現状を調査分析し、差別のない街づくりのための釜ケ崎総合計画を考える研究集団として位置づける。

接点としての「フォーラム機能」は追求

もちろん言うまでもなく、こうしたことは、釜ケ崎にかかわるさまざまな人々の力と智恵を結集しなければ、なしとげることはできない。そうした点では、フォーラム的機能もあわせもたなければならないだろう。

同時に、研究のための研究のためではなく、実践や政策に結びつく研究を志向し、現場の問題意識を深化し、理論化していくために、釜ケ崎を中心とした学際的な研究・交流の組織としていきたい。

資料センターとして、会報を軸に、情報発信を担う

さしあたりは、資料センター的な役割を担うことから始めたいと思う。そして、ニュース・レターというかたちで情報発信を行っていきたい。

以上が、事務局で議論して意志統一できたことである。このような性格づけに基づいて、会の運営をして行きたい。(1997/2/7)

〒558 大阪市住吉区杉本3-3-138

大阪市立大学同和問題研究室内

野口道彦研究室気付「野宿者と釜ケ崎労働者の人権を守る会」事務局