1997年6月8日・釜ヶ崎
もう何年も触っていないカメラを持ち出して、釜ヶ崎の街を写した。
ちなみに、カメラの水銀電池に不安があったので、カメラ屋に買いに行ったが、もう売っていないとのことであった。ようするに、この「前振り」はうまく写ってないことの言い訳なのである。
まず一枚目<>JR環状線「新今宮駅」の中から見た「あいりん総合センター」。
右側中央に見えるのは、南海電車。
一階に見える人の列は、どこか知らない宗教団体が果物を配るのに並んでいる釜ヶ崎の労働者。
「あいりん労働公共職業安定所」は、職業紹介を一切おこなわず、もっぱら、「アブレ手当て(日雇いの失業保険給付金)」を支給する所。
「大阪社会医療センター」は、今は亡き本田良寛さんの働きにより開設維持されてきた釜ヶ崎労働者の病院。お金がなくても「借用書」を書くことで治療を受けることができる。
1997年6月8日午後3時ころ(上)。下は、同日夜、8時ころ。「あいりん総合福祉センター内部」
何をしているかについては、「アブレ・野宿増大に伴う緊急要求」参照
コンクリートの床にビニールシート・ゴザを敷き、毛布一枚で夜を過ごす。
大阪市から支給された「災害救助用カンパン」を受け取る労働者(上)。この日は1,010人が受け取った。
下写真に見える一袋が一日分。しかし、これでも画期的な出来事ではある。問題解決とは程遠くても
(下)ゴザを借りてめいめいで寝る準備をする。
カンパンの配布・ゴザや毛布の配布と早朝の回収は「反失業連絡会」のメンバーと労働者の手によって行われている。
これは8月1日早朝まで続けられる。
8月1日、予定通りにセンターのシャッターは閉じられ夜間開放がなくなった。
カンパンの支給は盆明けまで続けられる。