釜ケ崎労働者が確実に当てにできる収入は、日々働いて得る日当がすべてである。
収入の総額は、日当の単価と就労日数によって決まる。当然ながら、就労できなければ収入はゼロとなる。(雇用保険制度があるが、これについては後で触れる。)
釜ケ崎労働者の就労先の90パーセント以上は建設・土木業の現場であるが、他に僅かながらも製造業の工場内作業、運輸・倉庫関係の荷役作業、ガードマン、遺跡掘りといった仕事もある。
また、釜ケ崎労働者の日当と一口にいっても、従事する職種によってかなり幅がある。
標準的な賃金は、建設・土木における『一般土工』と呼ばれる職種で1991年現在で1万2千円である。
比較的軽作業といえる遺跡掘りなどは、これよりやや下回るし、技能を必要とする仮ワク大工・トビ職・鉄筋工・カジ屋等々といった職種は土工の単価よりもかなり高額な日当単価となる。
1万7千円位から2万円を中心にし、2万4千円を超える職種もある。
ただ技能を持つ熟練労働者(職人層)が、釜ケ崎労働者全体に対して占める比率はそう高くなく、圧倒的多数は一般土工層である。
賃金水準は、基本的にはその時々の労働力需給の関係によって決定されるが、労資の力関係にも影響される。
釜ケ崎の賃金水準を、日雇層以外の「賞与」も含むような一般の賃金の水準とを単純に比較することはできないが、「賃上げ春闘」が長く存在しなかった釜ケ崎において年々の賃上げは無いに等しいものであったことから、以前の釜ケ崎の賃金水準は雇傭層全体のそれと比べて低水準に留まっていたといわれる。
しかしながら、釜ケ崎においても1980年から釜ケ崎日雇労働組合を中心に春闘が闘われるようになり、1984年春からは毎年日額で5百円づつ上昇してきた。
特にここ2年間は、1987年以降の好景気と人手不足も手伝って、年に1千円づつ上昇して現在の水準にある。ただ元請けが人件費として計上している元請単価は、現実に労働者に支払われる単価よりも高いのであるが、手配師・人夫出しによるピンハネ(中間搾取)が必ずあり、賃金水準を下げる要因となっている。
釜ケ崎労働者の収入を規定しているのは、賃金水準もさることながら、より大きな要因は就労日数である。
現在月平均就労日数は、14〜15日位であるが、中には平均以上就労している人もいれば、それ以下の人もいる。
平均就労日数が、釜ケ崎における労働者の生活の最低限度を支えるのに必要な収入を得るための日数を示しているとすれば、月々の就労日数の安定確保は重要な意味を持つ。
ところが、さまざまな要因によって就労日数が不安定になっているのが現実である。
就労日数を不安定にする要因の客観的なものは、景気変動による労働需給の要因、公共投資に関わる行政政策の要因、盆・正月などの季節要因であり、梅雨・台風・夏の酷暑などの天候要因である。
その中で最も大きな要因は、景気要因である。不況局面に入った時に、まず首を切られるのは弱い立場の労働者で、日雇・臨時工・社外工・中小企業の労働者である。
最近では1970年代の二度のオイル・ショック時には、釜ケ崎では多くの労働者がほとんど就労できない状態が続いた。1980年代前半の円高不況時も、また同様であった。
1970年代後半は、景気てこ入れ策としての公共事業がおこなわれ、釜ケ崎に仕事が戻ったが、1980年代前半には「行財政改革」の名のもとに公共投資が抑制され、釜ケ崎に仕事がなかった。
景気変動と行政政策的要因は密接にからみあって、釜ケ崎の労働者の生活に影響を与える。
就労日数が不安定となる要因で、労働者自身に関わるものとしては、高齢化・労働災害・疾病の問題がある。
釜ケ崎労働者が就労する労働は、現場の肉体労働が中心であるから、力仕事であり、危険が伴う場合が多い。当然のことながら、一定の体力が必要である。
しかしながら、長年にわたる日雇い生活は、日々体力の酷使を伴うものであり、先に見た居住・食生活環境とあいまって一定の体力を維持し続けることは困難であり、誰しもが強労働に日々連続して従事することができなくなる。
高齢ともなればなおさらで、何日か就労して何日かは休息をとるという形でしか働くことができなくなるし、就労できる適当な職種さえ限られてくる。
1980年代に入って、釜ケ崎は急速に高齢化をむかえ、1970年代には平均年齢が50歳の大台にのっている。今後、労働者総体の高齢化に伴う問題は、益々深刻化すると予想される。
雇用保険についてーさきに労働者の収入は日雇労働で得る日当のみと書いたが、仕事にアブレた日には、雇用保険の給付金を受けることが可能である。
これは「雇用保険日雇労働被保険者手帳」(通称白手帳)の交付を「あいりん労働公共職業安定所」で受け、二ケ月間に二八日以上就労し、手帳に保険料印紙を貼付することによって、翌月(三月目)に最低一三日、貼付印紙枚数によって最高一七日を限度として日雇労働求職者給付金(現在一日6千2百円)を受け取れる制度である。
常態的に半失業状態にある釜ケ崎労働者にとっては、最近は賃金の上昇でやや価値が下がっているものの、かなり大きな生活の支えとなっており、白手帳保持者の七割弱が、毎月一人平均10日弱を受給している。
ただし、受給資格が2ケ月に28日以上の就労を前提としているため、長期にわたる不況期において受給できる労働者は、一部の幸運な者に限られることになる。
また、好況期であるとしても受給可能な労働者は月平均14日以上就労できる者に限られることには変わりなく、それ以下しか就労できない労働者は、白手帳を持っていても無意味ということになる。
実は、雇用保険の給付が最も必要であるのはこの層の人たちではないのか。ところが彼らは、たとえ月平均10日就労していようとも行政の側からは、日雇労働者としては非現役とみなされ、給付の対象外とされているのである。
つまり、労働行政の立場からすれば、これらの層の労働者は、福祉行政の対象ということなのであろう。
一方、福祉行政の立場からは、まだ労働能力があるとして、ここでも対象外とされてしまう。
このような労働と福祉の行政の谷間にある労働者が、釜ケ崎で最も窮している人たちで、特に高齢者や疾病者がそうである。
釜ケ崎地区だけで、毎年150〜200人の行旅死亡人がでるが、その背景にはこのような問題があることを忘れてはならない。
労働者はどうしても生活費に窮すると、借金をして食いつなぐ。
仕事仲間や友人から借りる場合もあるが、これには限度がある。世間では「サラリーマン金融」の言葉はすでに「死語」に近くなっているが、釜ケ崎ではここ十数年の間に「手帳金融屋」が急増した。
これは、「白手帳」を担保として労働者に金を貸す小口金融のことである。金融屋の中には暴力団経営のものも少なくなく、暴利を貧っている。
釜ケ崎には現在暴力団が22団体あり、800余人の暴力団員がいるとされ、種々の不法行為をおこなうとともに、手配師や金融屋という半合法的形で、労働者・釜ケ崎社会に寄生して、労働者を苦しめている。
1990年10月の「暴動」の背景には、西成警察署警察官の労働者に対する常日頃の不当な対応もさりながら、このような労働者と暴力団の日常的関係が、もっと大きな社会的な理由と共に存在していたのである。
以上、釜ケ崎の労働者の収入についてみてきた。単純に計算して、一日1万2千5百円で1万5千人の労働者が働けば、それだけで1億8千7百5十万円が釜ケ崎の街に持ち帰られることになる。
一ケ月では、雨と祝祭日を除いて20日の稼働とすれば、37億5千万円となり、一年では450億円となる。釜ケ崎という地域社会は、この労働者の稼ぎと消費に依存しており、それ抜きには成り立たないのである。
にもかかわらず、行政が地域住民という時、釜ケ崎日雇労働者の存在は不当に軽んじられているように思える。
釜ケ崎は巨大な日雇労働市場として存在し、日本全体の労働市場の一部を成している。と同時に、その中で特殊な位置を占めている。
一般に日本の労働市場は、学業の修了から就職へと直結し、しかも大企業を中心に終身雇用制がおこなわれ、きわめて閉鎖的であるのが大きな特徴とされてきた。
その意味では釜ケ崎は対極にあるといえ、いろいろな点において自由で、流動的で、開放的労働市場である。
就労する企業や働く場所は日々異なるし、誰がこの労働市場に参入しようが特別の条件・資格がいるわけではなく、まったく自由である。事実、労働者の「流入」・「流出」は、時の社会・経済情勢によって常に起こっている。
他方、釜ケ崎に求められ、釜ケ崎の労働者が現実に提供している労働の中身は、建設・土木を中心とする現場の肉体労働であって、世間一般から、特にカッコウ良さを求める若者たちからは敬遠されがちで、決して高い社会的評価は受けていない。
この意味では、釜ケ崎は全体労働市場の下層を形成していることになる。しかも、このような労働力が目に見える形で、地域的に集中していることも特徴的である。
さらに現在の釜ケ崎は、労働力の主体(労働者自身)による労働力の再生産構造(次世代の労働力の創出構造)をほとんど持っていない。
かって、“貧乏人の子沢山”といわれ、農村や都市下層は労働力の豊かな供給源であった。しかし、日本の敗戦後の経済高度成長の過程で、社会・経済状況は大きく変化し、家族のあり方も変わってきた。
核家族化は進行し、出生数も年々減少を続けている。
そして、労働市場の構造も、女性労働者の増加・パートなど非常雇層の増大などと変化した。
そのような中で釜ケ崎に現れた変化は、「家族持ち」の「流失」と単身労働者の集中であった。釜ケ崎への単身労働者の集中が進んだ現在、釜ケ崎独自には新たな労働力を生みだす機能はなきに等しい。実際に釜ケ崎労働者の中で、釜ケ崎生まれで釜ケ崎育ちの労働者はほとんどいない。いたとしても、ごくごく少数である。
従って、巨大な日雇労働市場を支える労働者の大多数は、他の地域や他の労働市場からの「流入」者ということになる。