写真で見る98年6月から9月
釜ヶ崎における労働者の簡易宿泊所宿泊状況は、下記のように減少し続けていると伝えられている。
1998年4月 宿泊所数 191
最大収容能力人員 18,314 宿泊者数 12,065
宿泊率 65.9%
1998年5月 宿泊所数 191
最大収容能力人員 18,314 宿泊者数 11,372
宿泊率 62.1%
1998年6月 宿泊所数 190
最大収容能力人員 18,255 宿泊者数 10,638
宿泊率 58.3%
1998年7月 宿泊所数 190
最大収容能力人員 18,255 宿泊者数 10,481
宿泊率 57.5%
(多分:西成署防犯コーナー調べによる)
日々野宿を余儀なくされる労働者が増え続ける中、5月末からの交渉を経て「センター夜間開放」が実施された。
(6月9日センター1階、北から南を臨む。)
(ブルーシートを敷き、乾パンと水を配り、ゴザと毛布を貸し出市、回収する作業が毎日繰り返される)
5月末から野宿者の間で赤痢が流行(「大阪市内における赤痢の発生について」参照)
大阪市環境保健局感染症対策室から赤痢感染予防活動について協力要請があったことを受け、全面協力することを反失連で決定。
医療センターで行われる「下痢相談」を積極的に受けるよう情宣するほか、センター1階の便所2箇所の入り口にトイレットペーパーを吊るす事とにした。(費用は反失連持ち)
(6月22日、医療センター1階に設けられた「下痢相談」の受け付け)
「下痢相談」に続いて検便容器が配布され、検便を受けるように宣伝。
(センター1階の柱に貼られたポスター)
(検便容器配布の説明を行う感染症対策室室長=内科のお医者さん)
赤痢の発生と対策の経過について、夏祭り前夜祭で感染症対策室室長からなされた。
もっとも、労働者の多くは、情報隠しが行われたのではないか、患者はもっと多かったのではないか、治療がなおざりだったのではないか、との不信感を強く抱いていたようで、ヤジが多かった。
初診日別赤痢患者数
5月中
6名
6月1日〜6月7日
12名
6月8日〜6月14日
16名
6月15日〜6月21日
4名
6月22日〜6月28日
3名
6月29日〜7月5日
8名
7月6日〜7月19日
0名
1998(平成10)年7月24日現在 49名
検便容器の配布実績
7月13日
430(午前・午後、飲食店、吉田会長、山口氏渡し分含む)
430
7月14日 45(10時〜12時)
104(19時〜20時)
149
7月15日 30(10時〜12時)
120(19時〜20時)
150
7月21〜24日 10(10時〜16時)
10
総計
739
検便容器の回収実績
7月13日 13検体
一般 13
飲食店 0 全員陰性
7月14日 30検体
一般 24
飲食店 6 全員陰性
7月15日 33検体
一般 26
飲食店 7 全員陰性
7月16日 18検体
一般 14
飲食店 4 全員陰性
7月17日 28検体
一般 10
飲食店 18 1名のみ陽性・他は全員陰性
7月21日 4検体
一般 4
飲食店 0 全員陰性
7月22日 2検体
一般 2
飲食店 0
7月23日 6検体
一般 6
飲食店 0
7月24日 7検体
一般 5
飲食店 2
計
141
104
37
以上の数字は大阪市環境保健局感染症対策室による。
検便結果陽性の1名(要するに健康保菌者)は、「下痢相談」に行って薬をもらっていた人だった。
「下痢相談」を受けた人には軒並み3日分の薬が手渡された。3日間服用し続ければ赤痢菌は完全にいなくなるということだったが、この人は2日間しか服用しなかったという。
野宿者の生活条件は悪く、3日間続けて飲むことが普通に考えるより困難であるから、もっと他のやり方を考えたほうが良いのでは、という心配があたってしまった。
感染症対策室が熱心に取り組まれたことはよくわかるが、野宿者の間にだけ広まるというかってない条件であったこと、赤痢そのものが一般に「伝染病」として怖がられた時代のものとは対策室の認識が変わっていること(症状が軽くなり死亡例が少ないとの事)、などから、傍目から見れば、手抜かり、後手に回った感じを受けるた。
とくに、初期の段階で患者を受け入れた病院が、「野宿者の下痢はあたりまえ」と考え「赤痢」などについて疑うことなく、「赤痢」発生の把握が遅くなったり、下痢の軽くなったものを治ったとして退院させたりしていたのではないか、という疑念が強い。
今回の件については、詳細な報告書を作成することが必要であると考える。
(8月3日大阪市庁南玄関前遊歩道)
7月31日でセンター夜間開放が打ち切りとなったので、新たな寝場所対策を求めて行政交渉開始。
今回は市庁周辺での野営闘争となる(1週間)。
(市庁南玄関)
炊き出しも市庁横で実施
乾パン・水の支給期間の延長、臨時生活ケアセンターの開設がとりあえずの対策として提示され、とりあえず野営闘争中断。夏祭りへ。
昼と夜の夏祭り会場(三角公園)
藤田さんの提起を受け、大阪反原発労働者の会の全面的な協力で作成されたパネル。夏祭り会場に展示。
以下は藤田さんの呼びかけ文を転載。
原発にかかわる市民運動に関わっている藤田と申します。
原発被曝労働には、寄せ場労働者・野宿労働者・出稼ぎ労働者が従事しております。現在の労働安全衛生法の体系では、被曝労働は「ガンその他重度の健康障害を生ずるおそれのある業務」から除外されており、被曝後の健康管理や発病後の保障などについて何の措置もなく、典型的な使い捨て労働になっております。
現在、福島第一原発では老朽化した原子炉の中の構造体であるシュラウドの交換作業が行われております。全部で四基の原子炉のシュラウドの交換が予定されており、この6
月に最初の工事が終了したようです。秋からは二基目の作業が始まります。そこには約二千人の労働者が動員され、そのうちの千人は炉心に入ることになり、限度ギリギリの放射線被曝が一人一人の労働者に課せられることになります。その中には150
人のアメリカ人労働者( 東電は技術者であると言っていますが)
も動員されています。被曝量が大きく、短時間しか原子炉の中に止まることができないため、このような人海戦術が必要になるのです。
ドイツでも同様の事態(シュラウドのひび割れ)
が発生しましたが、原子炉の閉鎖という措置が取られました。日本では安価な使い捨て労働力を動員して交換作業が行われています。現役の原子炉の内部に人間が入ることは、史上始めてのことです。二千年からは島根原発、敦賀原発でも同様の工事が計画されています。
私ども反原発市民運動はこれまで電力会社や労働省などとこの問題について交渉を行って参りましたが、工事の着工を止めることができませんでした。そこで、昨年夏に「原発被曝労働をかんがかる会」を設立し、寿町の方々の協力をいただいて、「福島原発に行かないで下さい」という就労拒否を呼びかけるビラを一人一人に配りながら話し込むという活動を始めました。
絶望的に仕事がない現状で、仕事に行くなという運動を成立させる論理は立ちにくいことは承知しております。しかし私たちは、このような奴隷労働にも等しい差別構造の中にしか原子力産業が成り立ちえないことを一人でも多くの方々に知っていただきたいと願っております。
「労働者が被曝労働を拒否すれば原発は止まらざるをえない」ということの意味は大きなものであると確信し、今年も夏祭の会場でもビラ配りを行う予定です。寿町だけではなく、今年は山谷・新宿・釜が崎でも一斉にビラ配り活動に入ることを期待しているところです。ご協力下さる方の連絡をお待ちしております。
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原発被曝労働を考える会
藤田 祐幸
夏祭りの終わった翌日(8月16日)、「臨時生活ケアセンター」入所のための整理券が配布された。
写真は臨時生活ケアセンターの二部屋用意されたものの一室。
真中部分は空調の関係で2段ベットにできなかったと。喫煙室は別。近くにあるトイレには脱臭装置が備え付けられた。
日用品・衣類一式が支給される。三食風呂付き。タバコ銭として1日250円支給。
臨時生活ケアセンターも9月一杯で打ち切られる。
反失連は、9月21日、10月からの対策について要求書を、大阪市・府に提出した。