1990年以降、バブルの崩壊と規制緩和策のもとで失業―野宿生活者が増加し、社会問題化してきた。反失業―野宿者運動が全国的に高揚し、2002年 7月に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が成立するに至った。「人権教育のための国連 10年」国内行動計画などの取組みにもよるが、この特措法による影響が極めて大きいと思われる。
法第 1条において「この法律は、自立の意志がありながらホームレスとなることを余儀なくされた者が多数存在し、健康で文化的な生活を送ることができないでいるとともに、地域社会とのあつれきが生じつつある現状にかんがみ、ホームレスの自立の支援、ホームレスとなることを防止するための生活上の支援等に関し、国等の果たすべき責務を明らかにするとともに、ホームレスの人権に配慮し、かつ、地域社会の理解と協力を得つつ、必要な施策を講ずることにより、ホームレスに関する問題の解決に資することを目的とする。」と、具体的な取組みの指針が示された。そしてその翌年の 8月には、国による「基本方針」が策定され、以降、野宿生活者を抱える全国の自治体においても、基本方針に基く「実施計画」が作られ、「ホームレス自立支援事業」が推進されてきた。しかし、その実状はどうであろうか。
2003年1月、特措法に基いて全国実態調査が行われた。それによると、全国での野宿生活者数は 25,296人であった。47都道府県に存在し、内 71.8%が大都市部に集中していた。男性 97.8%、女性 2.2%。平均年齢は 55.9歳、50歳以上が 80.8%である。
直前の職業は、建設業関係 55.2%、製造業関係 10.5%であった。雇用形態は、正社員が 38.9%、日雇が 36.1%、パート・アルバイトが 13.9%である。野宿に至った理由は、仕事の減少 35.6%、倒産・失業 32.9%、病気・ケガ・高齢で仕事ができなくなったが 18.8%である。
仕事と収入の状況については、64.7%の人が何らかの仕事をしており、うち廃品回収が 73.3%を占める。また、月収 3万円未満が 60.2%であった。野宿期間は、1年未満が 30.8%、3年以上が 43.7%である。今後の生活の希望については、きちんと就職して働きたい人が 49.7%、今のままでよいと答えた人が 13.1%、福祉・入院が 8.2%、雑業等が 14.7%である。
2003年実態調査における野宿生活者の特徴は、リストラ・倒産などを背景に、傷病・高齢化・多重債務・家庭崩壊など複数の要因が重なり、失業を契機に野宿へと至った人が多数であった。
特措法における「ホームレス」とは、「都市公園・河川・道路・駅舎その他の施設を故なく起居の場とし、日常生活を営んでいるもの」としてある。この定義は、欧米諸国の幅広い概念からすると、極めて狭義なものになっている。社会関係から切り離されている人や、病院・施設・簡易宿泊所・ネットカフェ等にて一夜を過ごす人々などは度外視されている。現状では、これら野宿生活者予備軍への予防的施策が法のもとで充分に推進されず、「公園等の適正化」だけの対処療法的なものになっており、新たな野宿生活への流入を防げないでいる。
法第 3条では「自立支援等に関する施策の目標」を掲げ、「①安定した雇用の場の確保、②安定した居住の場所の確保、③保健・医療の確保、④生活に関する相談・指導の実施」とし、さらに第 2項において「ホームレスの自立のためには就業の機会が確保されることが最も重要であることに留意しつつ、総合的に推進されなければならない。」としている。これらの具体的な推進方策として、基本方針において「ホームレス自立支援センター」等を中心に、「ハローワークと連携した職業相談、求人開拓や求人情報の提供、技能講習や職業訓練」及び「公営住宅の提供や民間賃貸住宅情報の提供」等が打ち出され、推進されてきた。
厚生労働省による「現行ホームレス施策の状況( 2003~ 2005年)」を見ると、①「総合相談事業」での相談件数は、延べ 94,401件である。そのうち、自立支援センターや福祉機関等へつなげたのは、14,498件( 15.3%)でしかなかった。また、全国の自治体が実施している②「自立支援センター事業」での施設退所者総数は、16,415人である。そのうち、就労による退所者は、3,901人( 28.3%)であるが、再野宿の可能性の高い「満期退所・無断退所は 5,959人( 36.4%)もおり、後は、福祉等の推進による退所者で 6,555人(39.9%)ということであった。
「総合相談事業」と「自立支援センター事業」は、国による施策推進の根幹をなす2大事業である。巡回相談を実施し、自立支援センターに誘導し、健康相談・就職相談を行い自立を促していくのである。
残念なことに、相談事業における措置率や就労退所率が低いのは、野宿生活を余儀なくされている人たちが施策そのものに魅力を感じていないから、ということであろううか。入所施設におけるプライバシーのなさや、短期間での就労自立というプレッシャー付では、誰もが二の足を踏みたくなるのもわからないではない。うまく就職できればよいが、失敗すると再野宿である。しかも前の野宿場所に戻れる保障はない。であるならば、今のまま公園にとどまろうと躊躇しても、何ら不思議ではない。
現在、市内の野宿者数は約 5,000人と見られている。1998年の「市内実態調査」では 8,660人であった。3,660人が減少していることになる。自立支援施策や景気回復による効果なのであろうか。しかし、1998年から 2005年までの 7年間の減少要因を推計すると、「①行旅死亡人 980人、②病院・施設での死亡 4,013人、③生活保護(居宅保護)への移行 9,000人、④自立支援センターからの就労自立 1,100人、計 15,093人」となり、1998年次の野宿者総数から差し引くと大幅にマイナスにならなければならない。だが、現在約 5,000人の野宿生活者が存在しているということは、逆に「新規流入」が 11,433人もあったということになる。これら推計数を見ると、行政の自立支援策の中心と位置付けられている「自立支援センター事業」による支援の効果はどこに見えるのだろうか。この間、自立支援センターに入所したもの 3,002人のうち、就職した者は 1,132人であったが、定着した人はその 3割にも満たないといわれている。
生活保護を活用しての居宅への移行も、困窮の事実による無差別適用という法の精神にはほど遠い運用がなされているため、容易ではない。行政窓口に出かけていっても、「病気がない。まだ若い。働ける。65歳を超えてから」と追い返されることが多い。健康で働く意欲は高いが、高齢であるがゆえに仕事につくことができず野宿せざるを得ない労働者を、わざわざ病気になるまで路上で待機させ、そこからの加虐的な包摂は、極めて非人間的な行為といわざるを得ない。 長期にわたる野宿生活の強要は、「社会への再参加」の意欲を衰えさせ、「アルミ缶集めで何とか食えるからいい」といったテント・小屋がけ生活や「夜間シェルターと炊き出し生活」への依存度を強め、独自の「滞留文化・生活」を生んで、一般的な生活形態への復帰をいっそう困難なものにする。推計では、毎年新たに 1,633人もの人が野宿生活へと移行している。効果的な社会再参入策を考えるならば、野宿の長期体験は避けられるべきであり、自治体や支援団体による野宿者個々人を対象にした対処療法的な自立支援策では、量(層)的に対応できず限界がある。国の対策、基本方針の早期見直しと、野宿へと至らないようにするための雇用・福祉施策の抜本的な改革が必要である。
さらには、長期にわたる野宿生活や病院等での生活は、一般社会生活への復帰(居宅保護への移行)後も、さまざまな問題を生じさせることになっている。近隣とのあつれきや孤独感にさいなまれ、自殺したり、居宅を放棄したりする、生きがいを見出せなくなり酒・ギャンブルで破産する人が少なからず見受けられる。
路上や公園などでの長期滞留をさせない福祉制度の、緊急かつ大胆な運用と、野宿生活からの脱却に向けた、実状にあった社会的就労事業の大規模な実施が不可欠である。
何故に実効性のある施策が実施されないのであろうか。日々路上死が生み出されている状況の中で「予算がない」「地域・経済社会の理解が得られない」等の話で済まされることではないと思うのだが。その背景には、野宿生活者に対する根深い差別や排除意識がある。
野宿生活者は、1980年代頃までは、新聞報道等においても公然と「浮浪者」といわれていた。それ以降は、「野宿者」「野宿生活者」「路上生活者」である。日本の社会の中で「浮浪者」という言葉が使用され始めたのは、律令国家の時代からではといわれている。戸籍が作成され、民の良・賎の別が支配者によって定められ、律令国家体制完成後の「令集解」に、「他国に往来して己の国を棄てず、課役を全出するを浮浪といい、課役を輸せずして他国に居住し、本属を領せざるを逃亡という」、捕亡律には、「亡(逃)あらずして、他所に浮浪すること十日、笞十、二十日―等を加え、杖一百に止む。賦役を闕く者は、亡法による。」とある。
江戸時代では、住居を持たない者、正業を持たない者を指す言葉として、「無宿浮浪」が使われた。非人手下に加えられる者に対する弾左衛門の訓示「親又は可便者合果、俄に渡世を失い候者に候得は、無拠無宿に成候儀に付、非人手下に申付候間、以来少したり共悪事など致す間敷候」。 1790年「寛政二年」三奉行への達し。「無宿もの召し捕らえ候節、悪事之れ有、入れ墨敲等御仕置相済み候者勿論、吟味の上悪事之れ亡きものも、以来都(すべ)て加役方人足寄せ場え遣わす可き事」 人足寄せ場に収容する無罪の無宿に対する言渡し「其の方共儀無罪の者に付き、佐州表へ差し遣わす可き処、此の度厚き御仁恵を以って加役方人足に致し、寄せ場に遣わし、銘々仕覚の手業を申付け候、旧来の志を相改め、実意に立ちかえり、職業を出精いたし、元手にも有り附候様に致すべく候」
1908年(明治 41年)警察犯処罰令「第一条 左の各号の一に該当する者は、三十日未満の拘留に処す/三、一定の住居又は正業なくして諸方に徘徊するもの」
現行軽犯罪法一条四号「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意志を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」第二条「前条の罪を犯した者に対しては、情状に因り、その刑を免除し、または拘留および科料を併科することができる」
イギリスでは、救世軍の創始者ウィリアム・ブースが、1880年代に自分たちの経営する施設に来る人々について、次のように記している、「彼らの多くは犯罪人か物貰い、浮浪者であって、塵あくたのごとき人々である。-略- もしも彼らを養っただけなら、彼らは出て行って、翌日増し加わった体力をもって、今まで彼らのやってきた略奪的・放浪的の生活に戻るであろう。」(救世軍公報 20028号再暗黒の英国とその出路)
イギリス救貧法「-略- 王ヘンリー 8世は、こうした社会の変化(農地の囲い込み、浮浪者の増加やギルドの支配力低下)に対応する必要を感じた。1531年、王令によって貧民を病気のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可を下し、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年、この王令は成文法化された。これが最初の救貧法とされる。それまでの物乞いを禁止し、救貧の単位を教区・都市ごとに設定した。労働不能貧民には衣食の提供を行う一方、健常者には強制労働を課した。」
1926年に東京市統計課発行の「浮浪者に関する調査」第一章第一節「従来浮浪者に対する一般の見解は、それが自己の怠惰放蕩或は無能なる結果に属し、または生得的に不遇なる環境に約束されたるものであるとの意見に於いて一致していることは、之が取り締まりに見ても犯罪人と同一視し、その処罰を規定し、或はその救済的立場から見るも賑恤慈善であり、窮民救護であること以外に何等の対策を見ない」
かつてより日本の社会経済は、倒産やリストラを繰り返しつつ失業―野宿者を生み出しながら発展してきた。社会の一員(仕事・住居もち)から外れざるを得なかった人々は、釜ヶ崎や山谷において不安定な日雇労働や廃品回収を行い、「木賃宿」や野宿での生活を余儀なくされてきた。そこにおいては、「人間」であることをどんなに叫んでも、跳ね返ってくる有効な施策や言葉はなく、治安管理上の「鞭」と「自業自得」を背景にした「社会的無視」「野垂れ死の強要」だけであった。バブル崩壊後の激変は、社会の底辺・暗部に閉じ込めて処理されていた問題を社会の表に引きずり出すことになった。
「人々が生存と自由を獲得し、それぞれの幸福を追求する権利」「人間の尊厳に基いて各人が持っている固有の権利であり、社会を構成する全ての人々が、個人としての生存と自由を確保し、社会において幸福な生活を営むために欠かすことのできない権利」(人権教育のための指導方法のあり方について)
こういった権利を獲得するためには、たとえ「競争」を余儀なくされる状況下にあっても、誰もがその人の実状にあった形で働き、安心して生活できる社会の仕組みを実現しなければならない。今や、寄せ場固有のこととして無視されていた野宿生活者の問題は、全ての社会の課題として突きつけられている。非正規雇用といわれるパート・アルバイト・契約社員・派遣労働者(中でも新日雇と言われる日雇派遣)等の不安定就労層は言うに及ばず、正規雇用の人々も常に野宿生活という恐怖と背中合わせで生きている状態である。勝ち負けに表現される余裕のない格差社会は、野宿者の追い立てをいっそう強めている。人権確立への啓発は勿論のことであるが、野宿を生み出さない雇用・福祉施策、新しい社会保障制度の獲得抜きには、人権を尊重しあう社会の実現は不可能である。こういった施策の推進にあたって、人権法の制定は必要不可欠であり、微力ではあるが寄せ場の地から頑張っていきたい。