|   | |
釜ヶ崎とソーシャルワーク
by Satoshi Enokiuchi
>>  第1章  第2章  第3章  おわりに  文献:DATA 第1章 釜ヶ崎とは 1.1 範囲 釜ヶ崎とは日本最大のスラムである。失業率は90%を超え、路上生活者があふれる町である。麻薬や暴力団が跋扈し、差別され、最低限の生活保障さえ確保されずにいる。日本で唯一暴動が起きる町でもある。、セそもそも釜ヶ崎とは現在では正式な地名ではない。大阪市西成区の日雇労働者や路上生活者が多く居住する地域の俗称で、明治33年(1900年)に町名変更が行われたのち現在に至るまで100年間も呼ばれている。1966年5月、大阪市・大阪府・大阪府警察本部が構成する釜ケ崎対策に関する「三者≡連絡協議会」では釜ヶ崎の統一呼称として「あいりん地区」を使用することが決められた。以後行政はこの地域を「あいりん地区」、「あいりん」と呼んでいる。しかし、釜ヶ崎に住む労働者や民間の活動家は「釜ヶ崎」や「西成」と呼んでいる。(本稿では釜ヶ崎とよぶ) 釜ヶ崎は大阪市西成区の花園北一・二丁目、萩之茶屋一・二丁目・三丁目、太子一・二丁目、天下茶屋北一丁目、山王町一・二丁目・三丁目の11町、約0.62平方キロメートルの地域である。この狭い地域に約3万人と推計される人。が特定の住居を持たずに生活している。 しかし、路上生活者が釜ヶ崎に限定されているわけではない。釜ヶ崎、西成区に限らず、周辺の公園などにも多くのテントが張られている。1999年夏には少なくとも長居公園で124名、大阪城公園で119名のテント生活者が確認されいる。(柱1)さらには大阪府外の地方から出稼ぎという形で流入していたり、東京の山谷や横浜の寿町など他の路上生活者が多い地域などとの出入りがあるなど、釜ヶ崎を単独で考えるわけにはいかない。釜ヶ崎は大阪の都市部にあり、常に他の地域や時節や社会構造の変化の中でもたらされた現代日本の暗部といえる。 1.2 概観 釜ヶ崎もその中の地域によって特徴があるが、主に雑然としている。地域内では通行に支障をきたすような露店や屋台がたくさんあり、不法投棄のゴミなどが垂乱している。廃棄された自動車や自転車などが路上に放置されており・廃棄自動車のなかには、路上生活者が寝泊まりしているものもある。多くの路上生活者が仲間たちと昼間から酒を飲んで、道や公園でたむろしている。野外を生活空間としているため、その様子は非常に目に付く。地域内には、飲食店・弁当屋、作業服販売店、コインランドリー、コニrンロッカーなどが多い。また酒類などの自動販売機も多く設置されている。価格は他の地域に比べ安い。 この地域には約200軒の簡易宿所(通称:ドヤ)が密集している。釜ヶ崎のドヤの総収容人数は約三万人で釜ヶ崎労働者で一定の収入のあるものの多くは、ドヤを生活の場としている。頻繁にドヤを変える者もいれば、中には何年も住んでいる者もいる。ドヤでの居住環境は劣悪で、ドヤの全部屋敷の85%は3畳以下の広さしかない。(柱2)ほとんどがトイレ・炊事場が共有である。中には長期にわたり、建築基準法や消防法に違反したドヤも存在した。ドヤは一時的な宿所としての機能しか持っておらず、長期にわたり居住するには機能1帥こも衛生的にも社会的にも経済剛こも良いとはいない。 萩之茶屋南公園(通称:三角公園)や萩之茶屋中公園(通称:四角公園)では「炊き出し」が行われ、その周辺こ露店などが集中し多くの日雇労働者や路上生活者が集まっている。なかには、公園内でテントを張って寝泊まりする者もいる。そういったことから釜ケ崎の公副よ本来の憩いの場としてより・空1活の場として使われていいる。 萩之茶屋…新今宮駅すぐ前にある、あいりん総合センター(通称:センター)は日雇労働市場である釜ヶ崎の中心ともいえる。早朝から手配師と呼ばれる建築業者の日雇での就労斡旋人が労働者を求めてやって来たり、その日の仕事に就けなかった労働者はあいりん労働公共職業安定所(センター内)で失業給付金(通称:アブレ手当)の受給をしたりする。後述する、府市区の特別清掃の割り当てなどもここで行われる。その為、釜ヶ崎で仕事を求める者はほぼ毎日センターに来ており、センターはいつも労働者でごった返している。 1.3 人口と特徴 釜ヶ崎がある大阪市西成区の人口は約14万人である。そのうち約15%の約2万1千人(注3)が日雇労働者であると推計されている。さらに、釜ケ崎の居住者とはいえないが、釜ヶ崎に隣接する西成区の他地区・浪速区などからやって来て、釜ケ崎から就労している者が6千人位はいると推定されており、この人たちを釜ケ崎労働者に加えると総数は、先の2万1千人と合わせて約3万2千人に達するものと思われる。 特徴として釜ケ崎では一世帯当た'りの人員が極端こ少ない。西成区全体の一・・1世帯当たりの平均人員は2.22人であるのに対し、釜ヶ崎では1.32人、さらに萩之茶屋では1.16人となっておりほとんどが単身世帯で占められている。男女構成比は、男性が79.3%に達している。中でも萩之茶屋では、男性が91.9%に達しており、男性単身者の集中が大きな特徴となっている。 1平方q当たりの人口密度は、38,280人と、西成区19,301人の1.98倍大阪市11,793人の3.25倍と高い数値となっている。また、高齢化が進展しており、65才以上の人口構成比は・平成2年の10.6%( 3,269人)から平成7年の15.3%(4,292人)へと増加している。 釜ケ崎での平均年齢は55歳と推定される。
1.4 来釜と暮らし 社会構造や歴史が釜ヶ崎という特殊な地域を生み出したことは否めない。しかし、労働者や路上生活者が釜ヶ胸こ住むよ引蜘岬それ鞘があ1るにちがいないだろう。著者は釜ケ崎住民の一連の流れを次のようにまとめた。 @来釜
A釜ヶ崎での暮らし(〜40歳くらい)
B失業
ほか、仕事の内容が土木建築業と肉体労働であることから、高齢・障害・病…気等の理由で簡単に失業に追いやられる。現在は不況の影響もあり45歳以上で現金仕事に就くことは非常に困難になっている。 C生きる手立てを探す(〜65歳くらい)
Dその後(65歳〜)
高齢の生活困窮者は生活保護の認定を求めるのだが、釜ヶ崎の場合そこでも呈さらに困難が多い。まず・アパートなどでの居住実態がないと認めない。ドヤは宿屋であっても居住でないというのが公式の理由のようだ。しかし、何年にも渡り野宿生活を強いられてきた人は、アパートに入るお金がない。アパートに入るための保証金や敷金を用意できず、結果、入れないために生活保護を受けられない。もし、アパートに入ることができ生活保護が認定されても万事うまく行くわけではない。これは施設や病院への入所・入院の際にも言えることだが、釜ヶ崎住民は環境に適応したり、人とのコミュニケーションが大変苦手であるため、そこでの社会になじめないことが多い。アパートなら無断で出て、いったきり、施設なら自主退所、病院なら自主退院をしてしまうのである。 注1 大阪市立大学都市環境問題研究会・路上生活者聞き取り調査・1999
|