大阪における野宿生活者について
大阪における野宿生活者の総数については、大阪市が大阪市立大学都市問題研究会に調査を委託して明らかにされた数字(1998年8月)以後、誰もが言及しにくい状況にある。なぜなら、そのときの体制を越えて準備をした調査でない限り、信憑性が薄いことは明らかであるから。それでも、おおかたの見方は1万人を超えている点で一致している。1万2〜3千人という見方から1万5千人を超えているという見方までの差はある。
野宿生活者の就寝形態は、小屋掛け・テント・段ボールハウス・ゴロ寝と多様であるが、1998年調査によれば、写真最上段や中断右写真の段ボールの横に見られる「敷物・ベンチ」が過半数を占めている。
表1 野宿者数類型別区別内訳(実数)
|
テント・小屋掛け・ダンボールハウス・その他の形態・廃車 |
囲いダンボール・布団・ベッド・その他 |
敷物・ペンチ |
何もなし |
移動者 |
合計 |
大阪市 |
2,253(26%) |
607(7%) |
4,358(50.3%) |
874 |
568 |
8,660 |
西成 |
493 |
65 |
1,159 |
111 |
82 |
1,910 |
浪速 |
351 |
157 |
924 |
84 |
69 |
1,585 |
中央 |
324 |
78 |
470 |
116 |
129 |
1,117 |
天王寺 |
211 |
73 |
661 |
95 |
44 |
1,084 |
北 |
261 |
91 |
475 |
156 |
96 |
1,079 |
阿倍野 |
116 |
36 |
206 |
38 |
25 |
421 |
東住吉 |
181 |
19 |
126 |
29 |
3 |
358 |
住之江 |
17 |
11 |
100 |
17 |
29 |
174 |
西 |
40 |
41 |
27 |
26 |
23 |
157 |
淀川 |
39 |
5 |
34 |
46 |
19 |
143 |
都島 |
59 |
4 |
44 |
23 |
4 |
134 |
東淀川 |
42 |
2 |
19 |
29 |
3 |
95 |
西淀川 |
33 |
1 |
8 |
16 |
6 |
64 |
旭 |
19 |
4 |
17 |
13 |
0 |
53 |
生野 |
7 |
1 |
16 |
10 |
7 |
41 |
平野 |
15 |
3 |
2 |
9 |
2 |
31 |
港 |
9 |
3 |
3 |
14 |
1 |
30 |
住吉 |
8 |
4 |
10 |
6 |
2 |
30 |
東成 |
1 |
0 |
12 |
10 |
7 |
30 |
鶴見 |
4 |
5 |
8 |
8 |
2 |
27 |
此花 |
8 |
0 |
9 |
2 |
7 |
26 |
城東 |
6 |
0 |
16 |
3 |
1 |
26 |
福島 |
6 |
3 |
8 |
5 |
4 |
26 |
大正 |
3 |
1 |
4 |
8 |
3 |
19 |
あれから3年以上経つ現在では、定着型の「テント・小屋掛け」の占める割合が高くなっていると思われるが、総数が増加していることもあり、移動性の高い「敷物・ベンチ」がまだ過半数を維持していると思われる。
国の当面の対応策で実施されている、「自立支援センター」や「仮設一時避難所」では、定着型のごく一部についてのみ実験的対応がなされているにすぎないといえる。
日雇労働市場と野宿生活者
1998年調査でもっとも野宿生活者の多かった西成区には、日本最大の日雇労働市場(あいりん地区=釜ヶ崎)がある。
日雇労働者は、日々雇われ日々解雇される。
様々な衰退産業(農業・炭坑・繊維・造船など)からはじき出された人々が、不況ごとに展開される景気テコ入れ策としての公共投資で増加する建設土木の仕事を求めて、全国から釜ヶ崎に労働者が集まった。その一端を、あいりん地区越年対策として実施される「南港臨時宿泊所」利用者の出身地域の多様さに見ることができる。
釜ヶ崎の労働者を活用する業者は、西成労働福祉センターが把握しているところによっても、近畿圏を中心として全国各地に存在している。
西成労働福祉センターが把握している現金求人推移は、1977年を底にして80年代初頭を除き、1990年まで驚異的な増加を示している。
1961年8月の「第一次釜ヶ崎暴動」以前から、釜ヶ崎の日雇い労働市場は膨張を続けてきた。「電気・雑貨」の貿易を支える労働力(沖仲仕=港湾労働者)を維持するために、大阪府は国に働きかけ職安紹介によらない「人夫出し業者」を温存する「相対方式」の公認を国に働きかけた。「男性単身者の街」と言う特質が極端化するのも1965年以降のことである。
日雇労働者の不安定な就労形態から派生する野宿は、常に存在してきたといえる。路上死もあった。しかし、それは数百人規模のことであって、千を越えることはなかった。(数の多寡でそれが問題ではなかった、といっているわけではない)
港湾荷役が合理化され、製造業の求人も落ち込んだドルショック・第1次オイルショック後の、2千人を超えた野宿者の「梅田」への出現は、これまでの日雇労働者の就労形態から派生した野宿問題とは、質の変わったものとなったことを示すものであった。ただ、そのことを誰も気づかなかった。
1970年以降、釜ヶ崎の求人は建設土木だけとなり、その仕事を頼りに労働者が新規参入するようになる。1980年代初頭、釜ヶ崎に仕事が無かったが、「重厚長大産業」でも大量の失業者が出た。その後の「バブル期」においても「繁栄する産業」と「衰退する産業」のギャップは存在し、失業者の受け皿となったのは建設土木産業であった。
釜ヶ崎資料センターが1986年12月30日と1987年1月5〜7日の4日間、雇用保険給付金支給時間のあいりん職安前フロアーで聞き取り調査を行った。目的は急増した手帳所持者(1981年15,191人→1984年18,881人→1986年24,458人)が新規釜ヶ崎来入者なのか従来から釜ヶ崎にいて新しく手帳を作成した者なのかを把握すると共に、80年代初頭の不況の影響を探ることにあった。
聞き取り数は137人であった(内25人が5万台以前の登録。2名は手帳をつくっていなかった。よって27人は対象外となる)。・釜ヶ崎に来る直前の職業は、製造―28人(繊維1・鉄鋼8・造船5・機械2・他12)、金融・販売・サービス―3人、建設・土木―27人、自営―12人、農林・漁業―3人、他―12人、計―85人であった。
釜ヶ崎に来る直前の職業、退職理由は、合理化・倒産―32人、労災事故・病気―5人、自己都合退職―26人、他―22人であった。
調査の結果は、「重厚長大産業不振」の影響が顕著であったことを示している。
80年代初頭から、高齢日雇労働者の野宿定着が目立ち始めた。「バブル期」においても、新規参入者に押し出された高齢者の野宿は増加し続けた。
釜ヶ崎の地に,日雇労働者の就労生活形態を前提とした、システムが完成したのは1970年初頭のことである。
西成労働福祉センターやあいりん職安、大阪社会医療センターが入居する「あいりん総合センター」が完成し、現在の大阪市立更生相談所の前身である大阪市立中央更生相談所が単身簡易宿泊所宿泊者の民生窓口として釜ヶ崎の地に移ってきた。日雇雇用保険・日雇健康保険も「みなし適用」で普及した。
このシステムは、日雇労働市場が一定の活況を保ち得るだけの仕事が常に存在し、このシステムに組み込まれる労働者が一定の規模である限り有効であったが、システムの完成後すぐに破綻したことは、ドルショック・第1次オイルショック後の、2千人を超えた野宿者の「梅田」への出現が示している。
建設土木産業に大きく依存する日雇労働市場が大阪の地で拡大し続けた。一つの産業に依存することの弊害は、第2次オイルショック後の1980年初頭以来、4月から6月の「アブレ地獄」として毎年繰り返されることになる。この時期から、高齢者を中心とした野宿生活者が釜ヶ崎に隣接した日本橋を中心として累積することとなる。「バブル期」も例外ではなかった。「バブル崩壊」後は、現役層を含めて野宿を余儀なくされることとなり、前述のシステムの改変が進まず、社会的対応でなく個々人の生命力に問題解決がゆだねられた結果、野宿生活者の市内拡散、公園や道路での定住生活が出現することとなった。
野宿を生きる
野宿生活者も都会で生きるには、その多寡は別にして現金収入が必要である。写真に見られるように、アルミ缶を集め、売ることによって現金収入を得る野宿生活者は多い
1998年の調査によれば、テント生活者の85.7%が、テントを持たない野宿生活者の58.6%が、何らかの仕事をしていると答えており、1ヶ月の平均月収は、テント生活者が3万1598円、テントを持たない野宿生活者は2万6866円であった。
野宿生活者の多くは、自転車で、あるいは徒歩でアルミ缶や段ボールを夜間に遠方まで出かけて集め、現金収入を得ているのである。
「平成不況」並びに「高齢化社会」と野宿生活者
釜ヶ崎支援機構が大阪市より運営委託されている「あいりん臨時緊急夜間避難所」において本年2月13日に実施してアンケート結果によると、野宿期間1年以下が28,3%あり、野宿を余儀なくされる層が年々増加し続けていることを裏付けている。(当日夜間宿所の整理券は600枚定数を発行し、9時現在の利用者は579名であった。回答数は247名・回答率42.7%)。
野宿期間と釜ヶ崎にきてからの期間が同一のものが20.9%にのぼる。釜ヶ崎の仕事や福祉資源を当てにしてきたものの、思うに任せず、野宿に至った層であると考えられる。釜ヶ崎で働き続けた労働者の野宿への移行も見て取れる。
平均年齢は55.6歳で、これまでの各種野宿者調査と大差はないが、釜ヶ崎にきた時点での年齢を見ると、釜ヶ崎にきて新しい階層ほど年齢が高くなっている傾向がある。昨年3月の調査と比較すると、比較的若い層の増加傾向が見られる。
釜ヶ崎はこれまで、西日本を中心とした失業者の受け皿として機能してきた。それを可能としていたのは、建設土木産業の「繁栄」であった。しかし、建設土木産業従事者の全産業従事者の中に占める割合がドイツと並んで高いことの是正が迫られている今日、釜ヶ崎は「職」の受け皿がないまま、野宿生活者の受け皿と変化しているように考えられる。
また、現在は、年金受給資格のない高齢者や3万から6万程度の年金給付しか受けられない高齢者の受け皿となっているように考えられる。
しかし、仕事や福祉資源の受け皿が充分でないことから、幾ばくかの期間をおいた後、釜ヶ崎から市内全域への移動が始まる。
もちろん、釜ヶ崎に来ることなく、大阪市内はおろか府下の各公園・路上で、アパート・マンションから直接に野宿層へと移行している人々が多数存在していることは、失業の受け皿となっていた釜ヶ崎の破綻状況からすれば、当然のことといえる。
「日雇労働と野宿問題」が、派遣社員やパート・アルバイトなど不安定就労層の増加(いわばオール日本釜ヶ崎化=多数労働者の日雇化)と不況による失業、高齢者対策の不十分さなどから、「全国民的課題としての野宿問題」へと変化していると考える。
当面の対応策」と野宿生活者
政府は現在野宿生活者への当面の対応策として「自立支援センター」や「仮設避難所」などの設置を推進している。
対策は実施されればそれなりの効果は上げるものであり、野宿生活者が路上からの苦難から「社会再参入の機会」が得られていることは確かであるが、取り組まれている地域が全国化しておらず、対策が偏在していること、対策規模が充分でないこと、さらに「当面の対応策」であることから、確とした法的裏付けも予算措置もなく、抜本的な対策となり得ていないことなどの欠陥を持っている。
当面の対応策が帯びていた「実験期間・試行実施」の性格からしても、すでに相当の期間が経過し、貴重な経験が蓄積されているであろうことから、本格的な対策が確立されてしかるべき時期にあるとされるべきであると考える。
本格対策の実施に必要な法整備に当たって留意されなければならないことは、最低限度の対策基準は示されるべきであるが、最低基準の上に各地の実情に応じたシステムが構築される余地を保証することであると考える。
「大阪モデル」と野宿生活者
大阪に野宿生活者が多い最大の原因は、「失業の受け皿」が機能不全に陥っているからである。釜ヶ崎支援機構はこれまで、「職」の提供による問題解決を提起し続けてきた。多くの野宿生活者は、職がなく収入がないから野宿するのであって、野宿になったから失業したわけではない。この単純な因果関係に対処するには、「職」の提供ほど簡明で有効な対策はないと考えるからである。
大阪においては、国・府・市の協力で「55歳以上の輪番登録制」による職の提供が、釜ヶ崎支援機構への事業委託によって、実施されている。就労現場は大阪府・市から提供されているが、野宿生活者の就労によって新たな失業が生じることがないように配慮されている。一人あたりの就労日数は月に3日(5700円×3日)と少ないが、定期的に入る確実な収入として野宿生活者に当てにされているばかりではなく、社会に役立つ仕事に参加することで生活の張りをももたらしている。
戦後の「失業対策事業」は、一時的施策が恒常化した一つの職種となってしまった点で「失敗であった」という見方が旧労働省にあつたと聞き及んでいる。
確かに、「輪番」だけであれば前輪の轍を踏むことになるかもしれないが、とりあえず輪番就労により野宿の状態を回避せしめ、職業訓練をほどこすことによっての転業促進、起業を促すことにより輪番就労部分を暫時縮小するという複合的なシステムにすれば、本当に社会に有意な職能だけが残ることになると考える。輪番就労を軸にした一時的就労自立を先行させ、勤労意欲や体力・気力の摩耗を防ぐことによって、訓練への参加意欲や転職・起業意欲も引き出せ、社会再参入が可能となる(左図=輪番就労は14日就労、職業訓練は生活費扶助、野宿状態を元に本人の申し出、巡回相談員などの申請などで促進センターに登録することにより、事業対象者とする)