1章イメージとしての「野宿者」

 

 この章では世間一般に広まっている「野宿者」のイメージについて考えてみたい。

 1995年に大阪市立大学文学部社会学教室によって行われた「大阪市民の野宿者に対する意識調査」(以下では市民意識調査と省略する)によれば、「野宿者」と何らかの会話をしたことがある人は、約10%であった。大阪市内の特に「野宿者」の多い地域の人たちが対象であるから、大阪府内で調査をすれば、この数字は格段に低いものとなるであろう。しかし、すぐ側に住んでいる人たちでさえ、90%の人が「野宿者」と直接会話をしたことがないのである。そして、話したわけでもないのに、それぞれ「野宿者」についてはさまざまなイメージを持っているようである。中でも多かったのが、「野宿者は怠け者」であると考える人で、回答者2179人中1055(48.4%)いた。自由回答欄から引用してみると、

 

「野宿者は就労しようという意欲がないからなかなか施策が難しいと思われる」「自分より若くて元気そうな野宿者を見ると気分悪くなる」「野宿者は自分から進んで仕事をしなければ「行政」「福祉」と言ってもどうにもならないと思います」「仕事を世話しても無気力で怠け者が多いと思います」「働く意欲を持ってほしい」「勤労意欲があれば今日では野宿者になるようなことはないと思う」「現在の日本では働く気があれば仕事を失うことはないのだから本人の意思が問題である」「一度自由を覚えるとだめですね。3日したらやめられないとはよく言ったもの」「世の中には昔から落ちこぼれがすべての動物(人間含む)の中に存在するもので、人間以外の動物世界では弱いものは生きて行けないのです。これが自然の法則で人類も例外ではないのです。人間の野宿者の発生の原因は多くは自分自身の怠け、努力不足など一般社会生活者として欠陥商品的と同じで利用の余地が無いものが多いと思う。現状の日本の都市部では働こうと思えば健康なら職場は十分に有る。野宿しているから健康を害するので働いて賃金を得て、屋根の下、ふとんの中で睡眠出来るはずである。…と乞食は3日やると止められない」

 

 多かったのが、「3日やったらやめられない」と「働かざるもの食うべからず」という言葉である。このように「野宿者は働く気がない」という考えが広まっている。

 またこれとよく似ているが異なるものとして「自由人」であるという考え方も根強いと思われる。野宿はあくまで本人の意思で選んだ道であるということだ。「自由人」という見方は、実は意味深いものである。なぜなら、このような見方は野宿者に対してどちらかといえば「自分は好意的な感情を持っている」と考えている人に多いからだ。「彼らは好きでやってるのだから、余計なおせっかいをしてはならない」という意見は「野宿者」について理解を示しているようで、実は行政が「野宿者」へのなんらかの援助を行うことへの足枷になっている、言い換えれば行政が「野宿者」に対して何も支援を行わないことの論拠を支えているのではないだろうか(1)

 市民意識調査によれば、約25%の人々が、野宿者を「自由」「気楽」と考えている。市民意識調査の自由回答欄にも以下のような言葉があった。

 

「自由を好んでる人たちであると思う」「自分から進んでしている人がたくさんいると思う」「一般的には本人の意思による野宿者が多いと思われるので行政の干渉は必要でないように考える」「行政の力で宿泊所をあてがい、仕事の(アッセン)を、して上げたとしても、彼らは、その日その日、食べて焼酎を、のんで寝る。誰にも束縛されず自由に好き勝手に生きていく。体の具合が悪くなれば救急車を呼んで病院に入る。直って出てきたら、またもとの生活を始める。こんな生活が、性に合ってるのだと言う。きちっとした人間らしい生活は、できないものとあきらめている」「ホームレスの問題は一人一人の人生があるので決め付けはできない。例えば本人がそれが自由で幸せと感じていたならそれはそれでいいのでは。自分の人生は自分で決めるべき」「人間はそもそも自由な生き物であって、野宿者の生活の方がよっぽどそれに近い生き方だと思う。見栄や世間体を考えるほど情けない生活をするよりも大分ましである」「私の考えでは規則に従って生きることをいやがる人がホームレスになって気ままに生きていると思います」

 

 たとえば、まんが『美味しんぼ』の中ではこのイメージが非常に強調されている。『美味しんぼ』は捕鯨や米の輸入・いじめなどさまざまな社会問題に正面から取り組んでいる、社会派まんがであり、小学生から大人まで広い読者層をもつ(2)

 第4話で初めて登場する「浮浪者の辰さん」は「銀座のどの料理店がうまいか、一店残らず知りつくしている男」(3)である。主人公を助ける人として、その後も度々登場する。彼は銀座中の店のゴミを片付けたりしながら、余り物をもらって生活していると設定されている。3巻で辰さんは「浮浪者には時間が無限にあるから」(4)と発言する。また、辰さんについての「本当に自由な精神の持ち主なんだわ…」(5)あるいは、「私、辰さんのこと考えるんです。ああいう生活をするようになるまでには、いろいろなことがあったに違いないって…よほどのことがあったから、市民生活を捨てて、自由人としての浮浪者になったんだわ」(6)という発言も象徴的である。辰さんはこの後も度々登場するがいつも仲間と車座になって楽しそうに描かれている。
 

 一般に広まっている「野宿者のイメージ」は「働く気のない怠け者」かあるいは「自由人」のどちらかであるように思われる(7)。「自由人」と「怠け者」は両極端のようだが、結局どちらも「野宿者」が「市民生活」を送っている者とは異なり、時間に拘束されない異質な生活を送っているとみなし、そのことについての賛否両論なのである。「自由」という言葉には、時間に拘束されないという意味と、人間関係に拘束されないという2つの意味が含まれているのかもしれないが、私はここでは時間に拘束されないという意味での「自由」に焦点をあてたい。

 しかし本当に「野宿者」は時間に拘束されず、寝たいときに寝て、食べたいときに食べているのであろうか。私は「野宿者」は「自由」ではないと思う。そして、彼らの生活がどのくらい時間に拘束されているのか、あるいは時間に従っているのかを証明するために、彼らのルーティーンワークというものをキーワードに彼らの一日に焦点をあて、「野宿者」の生活にも毎日のルーティーンワークや行かなければならない場所、守るべきルール、守るべき時間などが存在している、ということを主張したい。