騒動十三年目を迎えた愛隣地区(釜ヶ崎)
ーその現況と分析―
社会福祉科助助教授 釋 智徳
華頂短期大学研究紀要18―1973.10.
第一次釜ヶ崎集団暴力事件から、はや13年が過ぎた。この間筆者は、本研究紀要をはじめあらゆる機会を通し、その後の釜ヶ崎報告と考察をこころみて来た。特に研究紀要第17号(1973・4)には、昭和34年〜48年1月までの事件史年表を発表した。この中で言える事は、国・大阪府・大阪市等各種関係機関に於ける対策の変化が、労働者側の変質について行けなくなった事柄である。特に47年5月以来、今日に至るまでの騒動は異質なものを感じさせている。今回は事件史年表を参考にしつつ、最近の愛隣地区(釜ヶ崎)を多角的に考察する事により、この変化への原因、そして今後の展望えと進めてゆきたい。
愛隣地区の沿革を述べるにはやはりその前段階的な大坂名護町(名呉・那呉・長町・奈呉・那古・名児)の歴史にふれねばならない。
先ず推古天皇元年(593)聖徳太子が四天王寺建立の際、あわせて四箇院を難波荒陵の地に作ったことにはじまる。当時すでに氏族扶助の枠外にはみ出た所謂社会的貧困者を対象とした最初の試であった。
そして名護町は、元来海でありその海が次第に陵土と変化し、そこに道を造り家を建て、ついに一つの町を形成したわけである。
摂陽群談より綜合すると、南より北へ向つて茅渟海、浅香浦、出見浜、利津、那呉海・鋪津浦・三津浦と浜が続いており、那呉海は現在の生魂辺りより住吉にいたる一帯の海を称したものらしく、そして以上の津々浦々を総称して大江の岸と呼んだ。当時の海浜は風光明媚で風流人が詩情を三十一文字に託したとも言れる。
その後浜には人家が作られ、天正11年5月(1583)豊臣秀吉は、池田信輝に代って大坂を治め、6月2日信長の一周忌を京都大徳寺で営み、間もなく大坂の地は海陸共に交通至便で、しかも西南の群雄をよく制御し、東北の雄をも制し更に都に近接する等、天下統一に絶好の地であるとの理由から、ここに大坂城を築くに至る。
その時代の名護町は附近一帯に松が繁り、姿はかわったが景色は以前に劣らず、大坂の人々は、ここを那呉の松原と称し一種の遊び場となっていた。大坂城でもこの松原を城外の馬場として一部使用した。
ところがこの地が南海道の入口に位置している為、人の往来が次第に多くなり、ついで出店等が現れ、発展して掛小屋から家、ついに人が定住し一つの町が出来上る。
名護町誕生の二つ目は、この地に旅籠の営業が許可された為、これらの旅人宿が次第に殖えたことである。この名護町誕生の原因となる旅籠屋に関しては、当時大坂東町奉行久貝因幡守正俊とその後任奉行である石丸石見守定次の二人が関係している。
久貝因幡守は元和5年(1619)9月東町奉行に任ぜむれ、大坂の地に旅人宿制度を認めた事は重要である。この事が大坂に旅籠屋株(注1)を生じた原因であり、その場所は名護町(南海道)と片町八軒屋(東海道)、曾根崎新地(西海道)の三箇所で、総株数23であった。
当時名護町には瓢屋、分銅屋、傳法屋、河内屋、大師屋、鍵屋、若江屋、坂井屋、玉の伏見屋、輪違屋等の旅籠屋があったが、その後寛文3年(1663)石丸石見守定次の代に入り諸国より大坂の地へ出稼ぎに来る力役者(出稼人夫・行商人・酒造人・米搗人・油絞人等)の増加が激しく、こうした力役者の為に名護町に木賃(きちん)宿(旅人自ら米を携え、薪代のみ支払って泊まる、つまり木賃だけで泊めた下等宿)たる一種の旅籠屋を許可したわけである。
その数およそ30株であり、大坂に集まる力役者宿泊の専有株を所有し、
如何なる事があっても力役者はこの30軒の木賃宿以外に宿泊を許さない規約になっていた。
しかし大坂の規模が拡大するに従い力役者も増加する為、その便利を計って、更に足溜屋(雇人受宿的なもの)を設け、これに力役者を宿泊せしめた。そのかわり足溜屋から月々名護町の木賃宿仲間へ五百文を支払う取り決めを作っている。
その後名護町は日々繁盛を続け諸国よりの流入者も多く、特に西国巡礼、非人、乞食の類が増加し天王寺村字合邦ヶ辻周辺は、いつも非人、乞食の野宿場と化して行った。(天王寺村誌・大正14年)
時代が下り享保17〜18年(1732)にかけて難波御蔵に米を運ぶために難波新川を堀る際、付近の細民を使役したとの記録もあり、そのため最近までこの堀を別名『極貧堀』と呼んでおり、当時すでに一定の貧民街が形成されていた事が伺われる。
当時の名護町のむさくるしさを随筆タッチで表現したものに上田秋成の癇癖談(くせものがたり)がある。(秋成は長町としている)又天保4年(1833)に窮民20万との記録も見られ、しかもその窮民を難渋者・極難渋者と区別している。
その後大坂は大凶荒、大飢饉が相次ぎ天保8年(1837)には大塩の乱が起っている。
更に文久2年(1862)名護町6〜9丁目(現日本橋3〜5丁目)に限り木賃宿30株を、特別に許可しており、ドヤ街への歴史はスタートする。
そして富国強兵で迎えた明治維新当時の西成郡今宮村は人家もまばらで、ほとんど一面の畑であった。元来今宮村一帯は、江戸時代よりの畑場八ヶ村と呼ばれる有名な蔬菜地帯の一つであり、虫が鳴き、カツコウもいるのどかな農村で、、この風景は明治中期まで続き、ねぎ・人参・しろ瓜・麦・藍・甘藷等がよくとれていた。
明治元年(1868)7月大阪府は、府令をもって長町木賃宿まがいの宿屋取締の件として、無宿者の悪業を働く者等が長町の木賃宿に巣食のを防ぐ一方、貧民街の拡大を抑制している。
明治3年2月木賃宿ポン引き、不正身元引受を禁止し、木賃泊りは『長町四丁目に限る』としている。更に明治19年(1886)12月宿屋取締規則(府令第63号)を制定したが、長町では日家賃を取る長屋の形式をとり擬装し、そのまま営業を続けている。維新の長町は南組に属していたが、その三郷の制(南組・北組・天満組)も葬り去られ、明 治5年(1872)の町組廃止の際に長町の呼称については日本橋3丁目〜5丁目と改称されている。しかし長町は依然として封建スラムの状態としておかれるわけである。
明治22年(1889)大阪市制の実施によって通称長町は南区に属し、明治30年(1897)第一次市域拡張に伴って、長町に隣接の問題地区である今宮村、天王寺村等が編入された。(天王寺村誌・大阪市域拡張史) この結果、関西線までの今宮村北半分が大阪市に入り、貧民地区は南区と変わるが、長町は市外にむかって膨張を続ける。 この時期が所謂封建的スラムより近代的、スラムえの移行に当るわけで、人口およそ9千〜1万であった。(大阪市の全人口約30万人)
その詳細は明治21年(1888)鈴木梅四郎『大阪名護町貧民窟視察記』、26年(1893)大我居士『貧天地饑寒窟探険記』、32年(1899)横山源之助『日本之下層社会』等にえがかれている。
つづいて明治36年(1903)茶臼山に於て第5回内国勧業博覧会を開催するために、長町表筋に面した不潔住宅は取り壊され、住人達は追われ次の場末で巣食う事になり又スラムが増えたわけである。 即ち千日前スラムが壌され、五階スラム・広田のスラムと拡がりその後市電開通で、長町は道路整備・拡張が繰り返される。結果、今宮村釜ヶ崎方面えスラムが進出し、人口増加、ドヤも32軒となっていく。 その後新世界歓楽街・天王寺公園・美術館・植物園・ジャンジャン横丁・碁会所・ゼット・ゲーム等、庶民の街が発展して行く。更に大阪人の郷愁そのものである通天閣の紅い灯に誘れるかの如く、釜ヶ崎は急速にドヤ型スラムとして成長を続ける。この外関西線・南海・阪堺・市電等の交通機関の発展に負う所も大きい。
大正6年(1917)村島帰之『ドン底生活』が世に出た後、釜ヶ崎の住人が日本橋の米問屋を襲撃した(約2,700人)事によって大阪の米騒動は口火を切っている。
翌7年12月29日は飛田遊廓の開廓式があり、当時釜ヶ崎のドヤは50軒を少しこえていた。 大正9年(1920)八浜徳三郎『下層社会研究』には木賃宿の実態、貧民窟の様子がくわしい。
大正13年12月(1924)、犬阪市立市民館調査によると、西成郡豊崎町の木賃宿の主たるものとして、三河屋・つるや、・平野屋・備前屋・播磨屋・玉 屋・紀の国屋・山口館・大阪星・あずまや・丹波屋・讃岐屋・藤屋等が大きく有名であった。 その後昭和を迎えるまでに大阪全市に労働者を止宿させる簡易宿が350軒もあり、人夫請負業、口入屋等も70軒を数え一ヶ月の斡旋は2万人を越えていた。 一方労働者達は大盛メシ7銭、朝食10銭、昼食14銭という生活で、大阪南には歓楽と貧困とが隣り合い縞模様のように通天閣を遠まきにして成長していった。
昭和4年(1929)大阪府今宮警察署の特別保護事報によると、釜ヶ崎人口7,000人、ドヤ街56軒とある。 翌5年吉田英雄『日稼哀話』に釜ヶ崎の立ん坊・先曳・鮟鱇(あんこう)について詳しく、9年(1934)武田鱗太邸『釜ヶ崎』には貧民生活の様子が、11年(1936)草間八十雄『どん底の人達』では、東京の細民生計費について詳しい。
この時代は長町より釜ヶ崎・飛田えの移行で、やがて満州事変、二・二六事件と続き太平洋戦争へ突入する暗黒時代に至るが、この間もドヤ、人口は増加して行く。(昭和15年〜木賃宿68軒)
20年3月14日焼夷弾により釜ヶ崎は焼野原と化し、敗戦後9月9日の梅田厚生館の開設、今宮保護所の閉鎖とあわただしい時代に入る。しかし不死身のドヤ街はこの中にあって戦前にもまして複雑な人間模様を内に秘めつつ、ヤミ市場として力強く立ち上って行った。
当時の事情は郡昇作『釜ヶ崎無宿』「日本の玄関釜ヶ崎」が余す所なく再現してくれる。
廃虚の街にドヤ・メシヤ・サカヤがスラム企業の雄として根をはるのに時間はかからず、35年にはドヤは182軒となり、36年8月1日の第一次釜ヶ崎集団暴力事件えと連がるわけである。この事件は、釜ヶ崎の名前を目本中に知らせる一方、深い関心を寄せる人々が増えた事も事実である。36年当時の地図を参照。
(註1)、江戸時代旅籠屋は株を定められていたが、天保の改革により廃せられ、嘉永4年3月の問屋組合再興令も旅籠屋には、適用されず、長町の木賃宿以外は無宿者、非人を宿泊させていない。 (戻る)
西成区の東北端に位置し、東四条1・2・3丁目、東入船町、西入船町、海道町、甲岸町、東萩町、今池町、東田町、山王町1・2・3丁目の13町で形成され、面積0.6平方キロで西成区全域の約8.4%を占めている。
この地区は国鉄環状線・南海電鉄・地下鉄・阪堺線・平野線や国道尼ヶ崎平野線、新紀州街道などの主要幹線道路が交差する、交通至便の土地で、南大阪の歓楽街といわれる新世界、飛田に隣接し、社会的な性格上、やや異質な山王、萩之茶屋の二つの地区より成っている。 持に釜ヶ崎銀座を中心にドヤと称せられる簡場宿泊所が集中し、飲食店・古物商・質屋・パチンコ・立呑屋・露店商・屋台等が軒を列ねている。更にその内部は次の如き小地域より構成されている。
T 東・西入船町、東田町を中心とするドヤ及び簡易アバート街。
U 東萩町の職安を中心とする街。
V 山王町4丁目の飛田歓楽街。
W 山王町1・3丁目の長屋及び間貸家地帯。
X 萩之茶屋・飛田本通・今池本通・市場通・山王東通りなどの商店街。
第Tのドヤ街は戦前の木賃宿の伝統を継ぐもので、今日その規模は戦前をはるかに凌ぎ、住民の大部分は立ん坊、アンコ、水商売関係者であり、人口流動が激しく、生活も不安定で、いわゆる社会病理現象のデパートといわれている。
第Uの職安地帯は、主として職安に登録して就業する失対労働者の街で、住民の生活水準(消費)は、ドヤ街より低いが、安定度は高い。簡易アバート・日払アバート・問貸家等に入居し、一応落ちついた生活をしている。
第Vの飛田地区は、旧赤線廃止により料理屋、旅館などに転向しているが、やはり旧赤線時代の性格が残っている。又この地区は大阪府下で最も暴力・売春事犯の多い所で、地区内に拠点を持つ暴力団、売春関
係者が多く居住している。
第Wは戦災にあっていないため、昔からの長屋、間貸屋が多く、下層労働者の住宅街となっている。しかし生活程度はドヤ街・職安地区より高く住民の安定性も強い。
第Xの商店街については、東萩商店街などの一部を除けば、整備された一般の商店街である。
以上述べた如く釜ヶ崎地区は、スラム的性格とドヤ的性格とが混同しており、為に地区の性格は東京山谷地区に比べ、はるかに複雑で地域的なまとまりに乏しく、その地域構造のスキ間に暴力団、グレン隊等の反社会的集団が介在し易いとも考えられる。昭和48年8月の地図参照。
地区人口は住民登録・未登録を含めて約45,000人で、大阪市の平均一平方キロにつき15,000と比べその過密さがわかる。この内18,000〜20,000人が職人を含む日雇労働者と推定され、又暴力団、、グレン隊等が約2,500人とされている。
これら地区内居住者をその生態別に分類すると
T ドヤ・アバート・公営住宅・長屋等に止宿し、あいりん労働公共職業安定所・西成労働福祉センター・手配師等を通じて就労する日雇労働者群。
U 金が有れば泊るが、ほとんど公園、空地などをねぐらにする労働意欲のない人間(通称くすぶり)や浮浪者群。
V ドヤ・アバートに住み売春・盗品故売・常習窃盗・賭博その他反社会的行為を反覆している暴力団、グレン隊、不良労働者(ユスリ・タカリ)、悪質手配師等を含む反社会的分子。
W アバートに住み地区内・新世界・南のパー・アルサロ・飲屋・料理屋等に勤めるホステス、仲居、バーテン等。
X 簡易宿泊所・アバート・下宿屋・旅館・飲食店・遊技場・質星・古物商等の経営者、家族及び従業員等。
この内日雇労働者は流動が速く、大体6ヶ月に3分の1が変わり、季節にも関連してくる。例えば12月20日頃より、正月10日頃まで地方の飯場に入る労働者などである。年間を通じて滞在数は、昭和44年頃の20,000人が横ばい状態にある。
年令構成であるが未登録人口が多いため正確な数字を把握するのは困難だが、大阪社会学研究会調査で登録人口に限って見ると、女子の割合が若干高い。
年令構成では20歳〜49歳までが総人口の56%、未登録人口を加えるとさらに高まり、山谷地区とほぼ同数となる。(註(1))ちなみに釜ヶ崎地区外の聖天下町では20歳〜49歳までの人日は47%である。15歳未満の人口は聖天下町23%に対し、地区は18%と低い。
(註(1))〜東京都山谷対策室の調査によると、20歳〜49歳までの人口は、総人口の63.1%にあたり、旅館居住者のみに限定すれば70%を占めている。
主として日雇労働者を対象とする宿泊施設の実態を見ると簡易宿泊所214、一般アバート278、日払アバート56、旅館34、共同住宅2、パラック25である。(48年8月西成署調査)
この内簡易宿泊所は数年前よりの新改築ブームが一段落し、現在214軒中86軒が鉄筋中層化し、内エレベーター設備11軒、冷房設備14軒で、外装は極めてデラックス化し一般ホテル並である。しかし反面防火設備・非常階段・通風採光等の衛生面から内部構造を検討すれば多くの問題がある。
最近保健所、消防署を初め関係機閥の強力かつ適切な指導と、大阪府簡易宿環境衛生同業組合の前向きの受入姿勢により、施設の改善整備は徐々に進行している。なお簡易宿泊所で同組合に加入しない業者が多く(59軒)、指導上問題がある。
なお愛隣地区外の簡易宿泊所は西成区31軒〜720名、浪速区内6軒〜570名、阿倍野区内9軒〜650名が数えられている。
日払いアパートは世帯持労働者にとって一応固定した居宅となっているが、1ヶ月10,000円以上の家賃は公営住宅を上まわる。
高家賃と知りつつもその生活基盤が日稼ぎであり、しかもアブレは不定期にやってくる為、みすみす高い日払アパートに入ることになる。
参考までに西成労働福祉センター調査の分布図を入れておく。(註(1))
客室の構造については畳1畳の個室が大部分で、2〜3畳は少ない。しかも畳サイズが可なり小型で、一般に言われる大きさ順で行けば京間→江戸間→団地サイズ→ドヤサイズとなる。
形式としては小間式・ベッド式・両者併用・大部屋であり、かつて主流を占めた大部屋(追い込み)は、現在2軒に減少している。
宿泊費は昭和33年(1958)で30〜50円、35年100円、45年200〜350円、本年8月200〜400円が75%を占め、冷房付個室は1,300〜1,500円で、連日腕の良い鳶職人達で満員である。
地区の日雇労働者はその食生活の殆んどを外食に頼り、慰安も地区内のバチンコ、立呑屋に集中し、大変な繁盛である。
本年8月西成署調査によると古物商360、金属クズ商12、金属クズ行商80、質屋21、マーヂャン屋23、バチンコ店11、移動遊技店6、カフェー9、小カフェー5、料理屋1、小料理屋80、酒類販売業29、立呑み屋158、移動飲食店40、喫茶店89、食堂169、お好み焼屋46、ホルモン屋22、すし屋33、映画館3、ゲーム・コーナー4である。
この環境の中で労働者一日の食費を見ると、昭和36年夏の夕食(大メシ40円・玉子焼、ノリ、漬物、汁で60円・バクダン4合80円)は180円であり、ウドン20円、カレーライス40円、焼酒1合20円であった。本年8月では大メシ80円、オカズ1皿平均60円に値上りしている。
一方東京山谷地区で貯金について調査しているが、貯金している25%、無し75%となっておるが、西成ではこの種の調査は無い。ただ愛隣貯蓄組合の貯金額は順調に上昇しているが、この中に日雇労働者がどの程度含まれるかは不明である。(47年末愛隣銀行残高は184,703,431円)
労働者の楽しみに関して大阪市大釜ヶ崎研究 会の調査で見ると、楽しみ無し23%、アルコール18%、ドヤでぼんやりしている時16.7%、バクチ13%と出ており、地区に健全娯楽設備の無い事が痛感される。
又困った時の相談については、労働福祉センター28.4%、特になし27.5%、親類12.5%、友人10%、防犯コーナー8%である。
以上簡易宿泊所(ドヤ)を中心に止宿者の生活状況を述べたが、このドヤは本来1人1畳位の合宿で自炊可能な旅人専門の旅館であったのが、出稼ぎ労働者の一時的旅籠として、又都市生活において転落したその日暮しの世帯持労働者の実質的な本拠(住所)として、アバート、間貸しと同じ役割を果してきた。
戦後の住宅難、地方からの流入者の増加はドヤの居住的、住所的機能を一層強力にしてきた。
更にドヤ、本来の目的である夜間の寝所以外に昼間の一時利用の場としても、又犯罪者、余刑者、売春婦、暴力団等の逃げ込む場所、隠れ家、たむろする場としての利用も増加している。
ドヤのこの機能はまさに社会問題であろう。
このため否んだパーソナリティは、この地区に長期滞在するにつれ、多くは一層助長されていくのが実情である。
立ち喰い、歩き喰いも奇異に感じることはなく、排尿、吐痰であたりが汚され、路にぶったおれても、人々は無関心である。
しかも生活そのものが天気、季節に左右され誠に不安定であり、家族、友人、地域社会との連携は薄い。常に追いつめられた孤独な現況下にあって、妙に虚勢を張り、刹那的生活に走りがちであり、生活向上の意欲を失い、釜ヶ崎での生活に染り停滞し、沈澱して行くわけである。
(註(1))昭和九年(一九三四)の大阪府今宮警察署木賃宿調査によると、単身者八〇一名―五〇・一%、二人暮らし三八四名―12%、三人暮らし四九八名―一〇・五%、四人暮らしは412名―六・四%、五人以上七二〇名―8.2%、無職一人者一九七名―無職二人以上一〇名で、合計三、○二二名との記録がある。 (戻る)
釜ヶ崎事件史年表は本研究紀要第17号にくわしいので、ここでは簡単に触れるに止める。
第一次事件は昭和 36年8月1日夜、交通事故が原因で10日間続き、動員警官延88,476名、直接の警察費用で1億5千万円をついやした。
第二次は38年5月12日、第三次は同月17目で共に長雨と求人ミスが原因。
第四次は41年3月15日夜、酒屋の店員とのトラブルで警備の私服を袋たたきにしている。
第五次は同月28日夜、たまたま釜ヶ崎で火災が発生し消防車がおそいと、3日間騒ぎ、警官のピストルを強奪している。
第六次は同年6月21日、パチンコの玉の出が悪いと騒ぐ等、41年は引き続き第七次(7・1)第八次(8・20)、第九次(8・26)、第一〇次(9・26)、第十一次(10・16)事件と計8回も大型騒動が発生している。各れも原因は手配師である。
第十二次は42年6月2日夜は、初めて民家へ投石が加えられている。
昭和43・44・45年は大型事件はないが、蝟集事案は年平均90件近くが発生している。
第十三次は46年5月25日夜、求人ミスが原因で、騒ぎに火炎ビンが登場している。
第十四次は6月13日夜、ドヤ管理人とのトラブルで、ドヤ街へ投石。 第十五次は9月11日夜やはり求人ミスで、無関係の一般民家へ放火した。
第十六次は47年5月1日、第3回釜ヶ崎メーデーの逮捕をめぐり発生。
第十七次は同月28日早朝、暴力団と過激派労働者の乱闘が原因。
第十八次は6月28日、西成署の不当逮捕をめぐり、投石。
第十九次は8月13日釜ヶ崎赤軍の過激みこしに刺激され、投石、放火。
第二十次は9月11日夜、新世界のバチンコ店で騒ぎ、投石。
第二十一次は10月10日早朝就労時、手配師と労働者が乱闘し3日間騒ぐ。
第二十二次は48年4月30日第4回釜ヶ崎メーデー参加の呼びかけが原因で、規制に出動した警官へ集中的に投石を行っている。
以上が13年間の主たる事件であるが46年5月(第十三次)まではその発生も遇発的であり、深夜まで調子に乗って騒ぐ者は所謂働きどではなく、暴力団の二軍か、不良労働者であった。為に連続騒動も雨が降れば自然解散したもので、主張も人間扱いしろという性格であった。
しかし46年5月事件を境に、各種過激派集団、過激分子の扇動による計画的・組織的騒動に変質して行く。
彼等に言わせると釜ヶ崎の権利闘争であり、各種PR文書、情宣活動も盛んで官庁・警察を敵とし
て正面に打ち出すなど、釜ヶ崎の解放がねらいである。
特に47年8月以降は多数の威力をもってアブレ賃を強要したり、無理就労・押しかけ就労(彼等はガタクルと呼ぶ)慰謝料名目に現金をまきあげる、犯罪に移行する恐れのある事案が30件にのぼり、内14件に過激派集団が関与している。(註(1))
又47年6月『暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(通称釜共闘)』が結成されて以来、蝟集事案が急速に増え、この結成に刺激されてか各種集団の誕生が相ついでいる。 以下団体名をあげるが、中には名称のみで実体のないもの、昨日生まれ今日消える団体も含まれている。
共産同赤軍派残党・京都大学C戦線・大阪西南地区反戦同盟・桃山大学連合戦線・日中友好協会正統本部・ML派・毛沢東派・蜂起の会・山谷反戦青年委員会釜ヶ崎支部・山谷現場闘争委員会釜ヶ崎支部・日中釜ヶ崎班・野鳥の会・釜ヶ崎医療を考える会・悪質業者追放現場委員会・全港湾建設支部西成分会・全日自労釜ヶ崎分会・釜ヶ崎夏祭り実行委員会・釜ヶ崎越冬対策実行委員会・反権力釜ヶ崎解放労働者自治会・暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議・釜ヶ崎解放委員会・関西徐支連支部・釜ヶ崎映画の会・人間的生活基盤を獲得する会・全港湾医療センター分会等があげられる。
最近の動きとしては山谷現場闘争委員会(通称山闘委)と釜共闘とが連合するのではないかと見られる。47年10月〜48年4月までに、東京山谷で、山闘委が起した事件だけで11回を数え、その中には必ず支援上京中の釜共闘が含まれている。
(註(1))昭和47年11月15日、大阪府下茨木市内のK建設に集団で押しかけ、アブレ料、慰謝料名義で多額の現金を喝取しようとした33名が、恐喝未遂・威力業務妨害等で検挙された事犯は代表的事例である。 (戻る)
愛隣地区に於ける日雇仕事、特に土木関係及び飯場労働者の仕事が年々減少してゆく傾向にある。原因としてまず考えられるのは、おくればせながら中小建設会社の合理化、機械化が進んだ事であろう。
更に最近の農村、漁村の生活が一層厳しくなり、必然的に出稼ぎ労働者を増加させている。彼等出稼ぎ労働者は現場で黙々と下積
み作業に従事し、自発的に早出、残業、休日勤務を行い、特に飯場労働者に比べて真面目であることから、次第に飯場労働者が敬遠されはじめた。
加うるに最近の人手不足から大手建設会社の現場監督クラスが、会社の要請で自分の出身府県で労働者を集めるようになった事もある。
この結果徐々にではあるが、愛隣の労働事情に変化が現われ始めている。この項ではあいりん労働公共職業安定所、西成労働福祉センターを中心に地区の就業構造、賃金、各種相談等について述べてゆく。
イ、地区住民の就業状況。
愛隣地区全体の就業状況を見るに自営・常勤・日雇・失業その他に大別出来る。
その構成比は大体、自営1〜2割、常勤2割、日雇4割、無職・失業その他2割と考えられる。(註1)
当地区での自営業とは旅館・貸間業・飲食業・商業その他であるが、大半は零細なメシ屋・ウドン屋、軽飲食店、古物商、露店商、行商、ヨセヤ等である。
中には大工、左官、石工、塗装工、自動車運転手等常勤又は日雇労働に容易に転換し易いものも見られる。
大規模なものでは例外的に簡易宿泊所の経営者もいるが、大部分の経営者は西成区以外に居住し、実際の経営は雇用人にまかせているのが実状である。
常勤に関しては詳細な調査が無いが比較的多いのは、臨時工・社外工・水商売関係(ボーイ、パーテン、ホスト、板前、女給、仲居、ホステス等)で事務負・外交員・常用運転手も居るが、数は極めて少ない。
主流を占めるのは日雇労働で、その就労経路で分類すれば職安ルート・労働センター・縁故・親方・手配師ルートに大別出来る。
無職・失業その他というのは窃盗・故買・売春婦・ポン引き・ノミ屋・。プロバチンカー・ダフ屋・予想屋・博徒・テキヤ・グレン隊等の所謂反社会的グループであり、愛隣地区を見る場合、無視出来ない存在である。
この様に地区内就業者は一般に就労形態が不明確で、就労日数も天候、季節に左右され易く収入も日稼形式で一定しない。労働センター・職安関係の就労に関しては別表(1) 別表(2) 別表(3)を参照。
ロ、就労形態と賃金。
民間事業関係、失対事業関係、港湾労働関係であいりん労働公共職業安定所に登録された労働者2,954人、大阪港労働公共職業安定所に登録された労働者926人、ただしこの内380人が愛隣の労働者である。登録労働者の実態は表(4)を参照。
あいりん労働公共職業安定所は、昭和45年4月に発足し、あいりん地区内に位置し、交通は国鉄環状線、南海本線、高野線の各新今宮駅、地下鉄御堂筋、堺筋線の動物園前の各駅に囲まれた総合愛隣センターの3・4階にある。
一年間を通じ毎朝5時にセンター寄場の160メートルのシャッターが開くのを待って、当日求人のマイクロバス・乗用車・トラック等130〜150台がつめかけ、元気の良い求人連絡員の呼び声がひびく。
朝8時頃までにこうして4,000〜6,000人の日雇労働者が働きに
行く。
このあいりん職安の斡旋で就労した数(47年)は1,368,993人で前年(1,277,487人)比91,506人(9%)の増である。
この内西成労働福祉センターの斡旋を受けて陸上関係事業(建設・製造・運輸)の就労数は749,374人、前年(551,958人)比197,416人の増加。
失業対策事業、民間事業、港湾荷役の就労数は58,263人、前年(692,966人)比114,703人の減少である。
更に港湾労働法第19条の規定により紹介される無就労者登録労働着の港湾荷役数は40,356人、前年(29,563人)比11,793人と増加している。
次に就労経路であるが、48年8月の愛隣地区稼動労働者数を2万と推計し分類したのが表(5)である。
職人グルーブは直行組に比べ就労先は不定であるが、賃金は高い。所謂職人気質の集団でむしろ賃金、条件より気分で仕事をする労働者で、職人としての誇りを持っている。
直行とは日雇労働者よりは精神的安定は強い、つまり一応雨でも一定の就労先が決っており、本人が出勤すれば職があるグループである。しかし身分はやはり日々雇用者にすぎない。
次に職種別労働内容について西成労働福祉センター資料により述べてゆく。
愛隣地区内単身者で、未熟練労働者を支えている業種、それは『土木建設業』であり、逆に言えば大阪市、衛生都市の建設業は愛隣地区の日雇労働者の力で成り立っていると言えよう。
だがこの土木建設業程、季節変動の激しい業種はない。
更にその元請・下請制度・名義人制度等かなり複雑で、末端事業所(孫請)に至っては単に飯場・現場え
労働者を供給するだけであったり(人夫出し)、仕事を請負ってから人夫を雇うという具合である。
この業界は11月〜翌4月までが底であり、5月〜10月に仕事がピークを迎え、最盛期には現場全就業者の50%が日雇労働者で占められる事はめずらしくない。
第一次事件当時の土建業平均賃金864円が、本年8月で平均4,200円に上昇している。昭和47年4月大建協調査(表6)を参照。
次に『運輸業』であるが、これは港湾・沿岸運輸を除いた陸上運輸を示す。日雇労働者への求人は土木建設・港湾関係と比べて僅かではあるが、今後トラック等による陸上輸送の増加が見込まれており、又常用化が望まれる業種である。
36年当時平均賃金893円が本年8月で4,010円となっている。
次に『製造業』であるが、堺臨海工業地帯に進出した大手重化学工業の現場に就労する日雇労働者は、飛躍的な上昇を示している。職種は工場内雑役・玉掛け・レンガ手元等所謂本工員の手伝いが中心で、36年当時平均賃金826円が本年8月で4,190円になっている。
次に『港湾運輸業』だが、これは船内作業・沿岸作業に別れ、日雇労働者は各れに就労してもはこび仕事である。
しかし船内作業では、はしけが来ないかぎり本船より陸に上がれないし、予定量が完了せぬ時等しばしば時間延長・オールナイトになる可能性が多い。理由は荷役作業を請負った会社が、滞船時間が長引けば滞船料金が高まり、それは自社の損料に連がるからである。
日雇労働者は船内、沿岸を問はず港湾作業務を嫌がり、賃金が他業種より10%程度アップしても時間のルーズさ、作案内容等によって嫌がる。例えば船内荷役と表示して現場(本船)に入ると、生の牛皮荷役であり、これをやると異臭が体にしみこみ衣類は全部駄目になり、ドヤも宿泊を嫌がり街に出ると野犬がついてくるしまつである。
かつて昭和34〜38年頭の港湾・沿岸の求人者はほとんど3〜5段の下請業者で、人いれ稼業的な組よって労働者を就労させ、賃金も求人時の表示通りは支払らわれなかった。36年当時、船内・沿岸平均して989円が本年8月で5,100円になっている。
一方登録労働者は、労使間の賃金協定に基づく慣行的団交により、毎年4月1日に遡及し雑役部門表示賃金の最低を3,000円(前年比300円増)、
有技能部門賃金の最低を4,000円(前年比200円増)と各々改訂している。
なお表示賃金以外に職務給、能率給が加算されるから実質賃金はさらに上まわっている。
最後に『飯場』だが、この言葉より受けるイメージはタコ部屋・監獄部屋・暴力等であり、飯場は一定の仕事を継続する為に労働力を蓄積する所である。一応食・住は保障されるが飯場特有の規則があり、それを破る場合は時にタコ部屋的性格が表面に現れる事もある。
一般に土木関係・港湾関係業種に多く、日払い仕事より賃金は安く、勘定(出面・デズラ)は月2回が通例である。 西成福祉センター登録飯場は大体930で、大阪市内では港区23%、西淀川区20%、東淀川区10%、此花区9%で、府下では堺市19%、豊中市12%、高槻市・守口市と続き、県外では兵庫県57%、同県下では尼崎市が49%となっている。
建設業に飯場が多いのは大手企業がその安定を考え常用労働者を確保すること無く下請・孫請にまかせ、孫請会社は人夫出し飯場に労働力を依存する為である。(註A)
36年当時飯場賃金8OO円が本年8月は4,000円となり、内飯代550円になっている。(飯代の外に諸式と呼ばれる日用雑貨・酒・タバコ類があり、タパコ以外は市価の2〜3割高で買わされる)問題点は登録せぬヤミ飯場の存在であり、これを野放しては労働条件違反・賃金不払・暴力等のトラブルは絶えない。
ハ、日雇労働者と社会保障。
我が国の各種社会保険、社会保障制度はいつも愛隣地区を避けて通り、長く空白地帯に置かれていた。
この中にあって西成労働福祉センターが中心になり関係官庁の協力で昭和40・41年で、2,000名の日雇健康保険手帳所持者が誕生した。その後あいりん労働公共職業安定所に業務を移管し、47年末で5,464と順調に伸びている。
更にあいりん職安では地区日雇労働着の勤労意欲向上と生活安定を図る為、45年11月20日から日雇失業保険被保険者手帳の交付を行い、46年1月から失業保険金支給を開始した。
受給労働者は増加し46年11月には実人員1,028となり、47年1月には2,104人となりスムースにはこんでいる。47年 末には手帳交付数6,426になり労働者にとって重要な生活安定への足場となってきた。
これまで愛隣地区日雇労働者に対する福祉対策は、皆無に近い状態にあったが、41年7月港湾労働法実施以来、おくればせながら努力がはらわれるようになった。
即ち
(1)43年3月港区に大阪港湾労働者福祉センター・45年7月に大正区で大阪第二港湾労働者福祉センターが開設。
(2)45年7月、雇用促進事業団の日雇港湾労働者世帯者用簡易宿泊所60戸完成。
(3)43年7月大阪港湾福利厚生協会が40戸の住宅を建設している。
二、相談業務の概要。
愛隣地区の日雇労働者を対象とする各種相談の窓口は(イ)西成労働福祉センター、(ロ)西成警察署防犯コーナー室及びコーナー員派遣室の二つに別けられ、これについて述べる。
(イ)西成労働福祉センター、
先ず『職業相談』で、その一つはここに来れば仕事があると地方から出てストレートに窓口に来る場合。二つには飯場の紹介、三つには不安定な生活より脱却したいと、会社の常用を求めてくる場合である。
『労働条件』に関する相談はもちろん作業現場や内容、時間、契約のちがいである。
『賃金不払いに関する相談』も種々あるが、この種相談程、センター職員に精神的緊張と労力とを強いるものは外に無い。未解決なケースはしばしば職員をノイローゼに落し入れ、胃腸障害をもたらす。
一年間に約900件ー1,500万円にも達するが、泣き寝入りを含めると実質被害金額は数倍になる。
『暴力に関する相談』のほとんどは飯場のケースで、全くひどい暴行(焼火箸・水風呂・丸坊主・丸裸・木刀等)を受けるが、センター職員には激しく抗議しても警察に届出るのは20%に満たない。
『家庭・生活相談』では、虚勢をはっている労働者も内心やはり故郷の事は想っており、手紙連絡の基地としてセンターを利用している。手紙の代筆はもちろん、内容相談もあり年間扱い1,800通になる。
『労働災害に関する相談』、愛隣地区の労働者は港湾・建設・運輸・製造業と他産業と比べて災害の発生
し易い危険な現場で多く働いている。47年度中の港湾・建設業の災害は全体の86%を占めている。従って労働災害に関する相談は、全相談の60%で、増加の傾向にある。
内容の一つは労災保険適用に関する手続きの件、二つには休業中の生活費、即ち休業補償費の立替の件である。(註(3))
立替の問題は、その日暮しの日雇労働者にとって緊急かつ深刻な事柄で、生活どころか死活問題である。しかし現実には求人に来る末端事業所は、ほとんど労災補償に対する認識が無く、労災補償の適用を受けていない。従って殆んど元請業者の保険適用を受けねばならず、複雑な下請関係の中で手続きを嫌う場合が多い。結果、労働福祉センターの立替金額は増加する一方である。年次順に見ると三九年二〇万、四〇年九〇万、四一年七〇〇万、四二年一、五〇〇万、四三年二千万、四四年三千六百万、四五年五千万、四六年七千万、四七年九千万と上昇を続け、この分で行けば本年末は一億三千万円になると推定している。次に労災の休業期間は一ケ月以上三五%、二週間以上を加えると五九%である。傷害部位の七二%は手足で、傷病種別の五八%が打撲・捻挫である。参考までに四六・四七年の統計を入れておく。(表(7))
(ロ)西成署防犯コーナー。 内容から見ると飯代・旅費・宿泊代が無い等の生活相談1,311件で前年比127件の増。医療相談の減少は大阪社会医療センターへの理解と利用が増えている事と合わせて考えると当然であろう。注目すべきは、格別の相談も持たず酩酊の上来署し、職場・地域・政治への不平不満を吐露し、慰めたり叱ったりされて、一時的にせよ精神的な安らぎを求めようとする労働者が多い事実である。なおコーナーを訪れる相談者の内、常連は大体二五%程度で、あとは絶えず移動、流動している一現の日雇労働者である。相談者中、単身者は約八六%、家族持ち労働者は一四%を占めている。防犯コーナー統計は表(8)を参照の事。
(註(1))昭和4年(1929)の大阪府今宮警察署就業状況調査によると、日雇778名―49.3%・行商194名―12.1%・工員112名―7%・くず拾い125名―7.8%・職人68名―4.3%・遊芸人63名―3.9%・その他雑役248名―15.6%で合計1,598名としている。 (戻る)
(註(2))人夫供給業・労働供給請負業と呼ばれ、愛隣地区では手配師、人夫出しと言われる。法律上は労働者供給事業として扱われ、昭和21年12月1日制定の職業安定法によれば「この法律で労働者供給とは、供給契約に基いて労働者を他人に使用させる事をいう」(第5条)と定義。特殊な場合を除き、原湖として労働組合が認可を得て行う以外は一切禁止している。更に労働供給事業を行う者から供給される労働者を使用する事も禁じられている。(第四四・四五条) (戻る)
(註(3))一般的に休業補償費の支払いは一定期間治療を受けた上で、医師の証明のもとに事業主の必要な証明の記載、別個に賃金台帳、出勤簿の作成をした上で、管轄の労働基準監督署に請求し、早くて20日、遅れれば40日以上もかかって支払いが行われる。 (戻る)
愛隣地区は確かに明るくなり、対策もキメ細く行われるようになっている。昼なお暗いカイコ棚式・追込み式のドヤは今は無く、立派な鉄筋ピルに変化した。がその底流には未だにどうしようもない暗さが残っている。
ここに住む人間にとって病気はある意味では死よりも恐ろしいものである。アンコと呼ばれる筋肉労働者にとって、肉体はかけがえの無い唯一つの資本である。それが駄目になると、人生の吹き溜りと言われる、この地区から も追放、脱落して行かねばならない。
(イ)西成労働分室時代。
第一次事件直後に急造された大阪府労働部西成分室(郡昇作室長)では、粗末な救急箱に労働者が薬を求めて殺到したものである。
因に開所の9月1日〜12月までの外傷・疾病手当は3,126人であった。翌37年1月〜8月で7,359人もあり、同年10月1日より新設の西成労働福祉センター内に厚生部(医務室・看護婦常駐)を設ける事で更に増加した。
診察を必要とする労働者は、済生会今宮診療所に紹介し、経費で受診出来るよう手配しており、実際にはほとんど無料となっていた。
日雇労働者だけに、西成分室時代同様に外傷(切傷・打撲)がトップで、内科系は飲み過ぎと、不規則な食生活からくる慢性的胃腸障害が大半で、労働福祉センターでは「正露丸」の愛好者か多く、又不思議に良く直ったものである。詳細は表(9)を参照。
その後38年5月大阪社会医学研究会が生まれ今宮診療所を中心に、愛隣地区の社会医学的研究、調査を続けている。(註(1))
同研究会は74回の例会を持ち、45年9月大阪社会医療センター発足以後と合わせ、その研究例会は111回を積ね、調査報告書も30冊になる。
少し古いが41年度実態調査報告によると地区の病気順位は結核40.1%、性病11.2%(共に全国平均を上まわる)、アルコール中毒、消化器、外傷、心臓である。性病の内訳は梅毒62.9%、淋病34.8%であり、この地区の特質として、あまりにも病気に対して無関心である事があげられる。(註(2))
即ち外見・自覚症状が消えると、直ったと思い性病患者では、この段階で通院中止76.1%、結核27.7%、一般の病気でも23.6%が病院通いを止めてしまう。
二つには入院先で酒を飲み、強制退院させられるケース、さらには自己判断で、さっさと退院するケース等がよい例である。
(ロ)大阪社会医療センター時代。
昭和36年以後、各種施設、機関は出来たが医療機関が不足していた為、多くの対象者がありながら不便であった。労働者は保険に加入していないため、あるいは個人的・社会的・経済的理由により必要な医療を受ける事が困難であった。
こうした大きな社会的要請に答えて45年9月1日財団法人大阪社会医療センター(本田良寛所長)が設立された。47年7月1日付で社会福祉法人に改組されれいる。(註(3))
大阪社会医療センターは、医療を必要とする人々に対し、必要かつ迅速な医療を行い、地域住民の保健と福祉の増進を計る為に
(1)生活保護受給者及び生計困難者に対する医療を重点的に行い、比等の人々を取扱う基準は年間診療総人員の60%以上とする。
(2)生活困難者に対しては、無料又は低額な料金で診療を行うと共にサービス費用の減免を行う。減免額の基準は、総収入のおおむね10%とする。
(3)医療に関する相談及び指導。
(4)社会医学的詞査研究。
以上の基本方針で現在は相談室(専任ワーカー4名)の人気も上昇し、更に週3回の夜間診療を行っている。詳細は相談室統計資料、表(10ー1)・表(10ー2)・表(11)を参照。
次に愛隣会館に入っている大阪市更生相談所の保護系統図(表(12))も加えておく。
(註(1))社会医学的立場から、釜ヶ崎の特質を調査、研究、実際活動を通じて地区住民の福祉に貢献する事を目的として結成された。大阪府済生会今宮診療所本田良寛氏を代表に、大阪市立大学医学部教授堀内一弥、同教授大和田国夫氏で組織している。(戻る)
(註(2))東京都城北福祉センター調査(45.4〜46.4)によると一年間の健康相談3,555件、病気の内訳は呼吸器系・・・・・・以下2行コピー不鮮明・・・・
(註(3))・・・・・1行コピー不鮮明・・・・病床数100床、診療科として内科。神経精神科。小児科・外科・整形外科・皮膚科・ひ尿器科・放射線科の8科である.
いわゆるスラムに於ける児童、生徒の不就学、長期欠席の問題及び青少年非行化の問題は従来からよく取り上げられ、それが貧困及び親の欠損と高い相関を示すことは、ほぼ一般に認識される所である。又児童福祉の立場から不就学児あるいは貧困児童の教育問題を取り上げた例も多い。
愛隣地区の前身時代、即ち徳風勤労学校(1911年7月5日、開校、当時南区の不就学児1,216人)の歴史とそれにまつわる児童の生活、地区の情景を克明にしるした『どんぞこのこども』(昭和41年6月、確井隆次薯)に詳しい。
就学前児童数を40年国勢調査で見ると、愛隣の0〜6歳乳幼児2,069人であり、その後の推定で約2,600人とされた。
45年4月西成署調査で見ると、0〜6歳は2,403人(男1,306・女1,095)を数え、同年4月20日夜、簡易宿泊所・日払アパート・一般アパートに止宿した0〜6歳児は720人(男375・女345)と報告されている。
この数に対して当地区の公立保育所は、山王保育所(定員90)・東田保育所(60)・今他生活館保育所(30)。愛隣会館保育所(30)があり、入所児の欠損家庭は22%である。
私立保育所は、恵光保育所(40)。わかくさ保育園(60定員の外に、青空保育28人もいる)・神愛保育所(30)・家庭保育の家(8)・長田託児園・東萩託児園があり、昭和36〜39年頃の預かり屋は姿を消した。
(47年末の大阪市公立保育所88・市内私立保育所100)大阪市内でも当地区は、浪速区恵美地区と共に未就学児・不就学児・長欠児が最も多い。(註(1))
36年以前の数字は正確な資料が無いが少くとも150名は存在しており、その理由としては、
(1)経済問題に代表される共稼ぎ家庭、欠損家庭の傾向が強い。
(2)経済的基盤の弱さが、教育に対する親の無関心、不熱心をまねく。
(3)子供サイドとして、怠学がありそれが長欠えと連なる。この事は一般地区とも共通するが、特に転居の多いこの地区の特色であろう。
(4)住民登録、学籍のない、更には出生届のない場合、これでは転入学手続きも出来ない。
(5)不就学、長欠を意にとめない地域環境。
以上五つの理由以外に過密住宅、保護者の職業、複雑な家族関係が互いにからみ合っている。
分布から見ると東萩地区(三角公園周辺)を中心とした簡易アパート街35%、ついで甲岸町、東入船町東部、西入船町、東三条町の順となる。
こうした現況下で、子供達えの指導は昭和34年頃から元校長、神西先生を中心に学生ボランティアの協力で、不在家庭の児童を中心に集め細々ながら行われていた。(学習指導・郊外学習・子供会)
36年4月大阪府青少年補導センター・西成署共同調査結果、地区内不就学児を200名としている。その後第一次事件が発生、当時の中井大阪市長、教育委員会等の努力があって同年12月19日、翌1月12日と市教委主催のクリスマス会、新年会が不就学児を対象に行われた。この二度の会で90名の児童が参加し、その後家庭訪問を繰り返し、就学をすすめ内約50名が入学願を提出している。
こうした経過の後、37年2月1日西成警察署前広場に、大阪市立萩之茶屋小学校・今宮中学校の分校として『あいりん学園』が開校された。
一方東京都も、あいりん学園を参考として荒川福祉センター内に『ひなぎく教室』を40年1月に開校している。
その後あいりん学園は順調に発展し37年8月には新設の愛隣会館に移転、38年4月『大阪市立あいりん小・中学校』として独立、48年10月完成が予定される新校舎(鉄筋4階、教室17、図書室、ブール、フロ、理髪室、特殊学級3の計画で総工費約2億8千万円)が建設中である。同校の年次別状況については表(13)を参照の事。
次に地区内の少年非行の実態(註(2))についてであるが、その原因を端的に言えば、地区の環境と保護者の観護能力だといってもよい。特に愛隣地区は、母子家庭より父子家庭(47年度地区内犯罪少年9名中4、触法少年16名中7、ぐ犯少年12名中4)の多いのが特色であろう。
父親は肉体労働者がほとんどで、従って昼間は留守、夜は深酒で早く寝る等親子の対話が無く、放任状態である。結果肉親の愛情に飢え、精神的、情緒的に不安定になり、一寸した動機で非行化する危険性を持っている。
彼等の非行防止と激励活動として、西成署コーナー及び婦人警察官が中心となり、困窮家庭・欠損家庭を訪問し、生活指導や不就学、長欠児等の発見補導に努めている。その他入学児童、卒業生への学用品、記念品の贈呈、あるいはクリスマス・ケーキの配分を行っている。次に参考までに愛隣地区内児童を対象にした調査報告書をあげておく。
1、スラム街不就学児の実態。大阪府警察本部〜昭和35年。
2、釜ヶ崎地区調査。大阪市建築居住宅部改良課。〜昭和39年。
3、愛隣地区の人口と児童の問題。大阪社会学研究会。〜昭和40年。
4、愛隣地区総合実態調査。関西都市社会学研究会。〜昭和42年。
5、愛隣地区実態調査。関西都市社会学研究会。〜昭和43年。
6、社会福祉行政基礎調査。大阪府。〜昭和43年。
7、愛隣地区児・生徒の生活環境調査。関西都市社会学研究会。〜昭和44年。
8、愛隣地区に於ける就学前児童の実態と問題点。関西都市社会学研究会。〜昭和45年。
9、愛隣地区勤労青少年の生活実態調査。関西都市社会学研究会。〜昭和46年。
10、あいりんの教育。あいりん学園。〜年1回。
11、あいりん地区の実態。大阪府警察本部・西成署。〜年1回。
(註(1))学校に行かない子供は未就学児・不就学児・長欠児があり、学籍のないものが未就学児。学籍はあるが1年以上欠席しているものが不就学児。就学しているが連続断続50日以上欠席しているものが長欠児であるが、本稿では一括して論じた。 (戻る)
(註(2))47年度地区内少年非行は、犯罪少年9(窃盗7・粗暴1・風俗1)、触法少年16(男12・女4)、ぐ犯少年12(男6・女6)である。不良行為としては、喫煙14、不純異性交遊5、不良交遊4、有機溶剤乱用4、盛場はいかい4、飲酒4、家出4、怠学4、その他10である。以上大阪府警察本部防犯部資料による。 (戻る)
おわリに。
以上各面より愛隣地区の現状を見たが、紙数の関係上、地区の治安状況は別の機会にゆずる。
結果あいりん地区が単に貧困階層の吹きだまりとしてのスラム地域でない事が判明し、全体社会の矛盾を集中的に表現している底辺労働者の街(ドヤ街)として性格づけされる。
しかも愛隣地区自体は労働の場でなく、消費の場であり、その為労働者に対する衣・食・住その他様々なサービス業が、地域社会で重要な機能を果している。
愛隣地区の問題は、ひとりこの地区だけの問題ではなく、広く大都市さらには社会全体の動向と結びついており、従ってそこに生ずる諸問題もまた社会的・経済酌不均衡や、ひずみの地域的表現に外ならない。
戦後我が国の経済は神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気をへて目ざましい成長発展をとげ、国民所得・生活水準の向上・雇用の拡大をもたらしたが、反面大都市と地方との間における諸種の格差を拡大し、労働力需要の増大と相まって、都市への急激な人口集中、即ち過密と過疎をもたらした。
また急速な工業化・技術革新の進展に伴って社会の各分野にわたって激しい変動を起してきた。この社会変動が急激で大規模であればある程、他面不可避的に種々の矛盾や社会的なひずみを生ずることになる。
愛隣地区の住居・環境・治安等の諸問題あるいは、同地区への人口集中自体も、その現われの一つであろう。
経済の成長は建設業・運輸業の労働力需要を増大させたが、これら産業に於てはその前近代性、特殊性から作業は間歇的で、なお日雇労働に依存する分野が他産業に比べて非常に多い。
一方出稼労働者、余刑者等都市の下降的転職者については、その労働能力、作業習熟の容易さ、手軽に現金収入を得られる事などから不安定・危険な就労条件下であっても、日雇仕事に就労することを希望する。
彼等が得る賃金を西成労働福祉センターの就労斡旋に限って見ても46年度平均賃金を仮りに2,500円として約15億円、47年度平均賃金3,000円として約23億円、本年1月〜7月まで平均賃金4,000円として17億円という数字になる。
たしかに愛隣地区は事件のたびに報道される暴力・麻薬・売春等、社会的に好ましくない状況も残念ながら一部に残っているが、それはこの地区の大勢では決して無い。愛隣地区は本質的に一般と変らない労働者の街であり、集中そのものが諸悪の根源でない以上、問題はその人口集中自体を防止し、あるいはこれを分散させるのではなく、集中に対応し得る受入れ体制を如何に整えて、地区の特質を的確に把握し、地区がはたしている大阪の労働市場としての機能を如何に正しく発揮させるか、という事であろう。
よしんばこれを強制的に分散せしめるとしても現在愛隣地区で行われている職・住の提供構造に代り得るものが用意されなければ、労働者の生活を破壊するか、更に悪化した状態で、場所を変えただけの類似地区を再現せしめる事になる。
御堂筋に林立する高層ピル、大阪をめぐる高速道路に投資される程に、それを建設する労働者には投資が行われず、ピルの近代化程には日雇労働者の労働条件・賃金・労働環境が近代化されない事が問題であり、その落差の大きいことが、地区の社会的緊張を促進させる要因となっている。
愛隣地区に冷房付きのドヤが出現し、一級酒、ピールが売れても、その精神的風土に荒廃の面が見られ、為に居住する正常な人々をも同化させていく傾向も見られる。
なにわともあれ今後ますます貴重となる筋肉労働者(労働力)の供給源としての愛隣地区の特質を確認した上で、一般地区並に住宅・医療・社会保険・健全娯楽・労働福祉・社会福祉等の施策を充実させねばならない。
それには総合的な社会開発の一環として、ドヤ街再開発を進め、地区住民の福祉向上とあわせて、円滑な経済発展の条件整備を行うものでなければならない。 以上
四八・八・三〇
本稿の資料は愛隣地区対策の関連する、官公庁・施設の協力によるもので、ここに厚くお礼申し上げると共に今後の御叱正、御批判をお願いする。