四十一番 玩具行商 四十九歳
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 風車を賣つて廻ります。大きな方の六角なのは二錢で小さな方のスクリームの方は一錢です。大きな方を買つた者には一厘の飴二箇遣りスクリームを買つた者には同じ飴を三箇遺ります。之は一見矛盾して居る樣に見えますけれどもスクリームを買ふ者の方が非常に多いので子供等を喜ばせて置く必要があります。其外縁日等では二錢の風車を五錢にして賣りますしスクリームを二錢にします。又道頓堀邊を歩くとしたら十錢貰つても釣りを出さない事とし其他客を見て適當に遺つて居る次第です。

 最初私が此商賣にありついた動機と云ふのは仕事が無いので西野田の共同宿泊所の附近を散歩して居ますと、恰度風車賣りが通りますので其野郎の誑ましてやらうと思つて暫く來いと云ふてお前の商賣はよい商賣だ實は己の友達で、何かよい商賣があるなら金を出さうと云ふて居るものが居るがどうだ物は相談だが友達が作る、君が賣る儲けは分けるとしてもよし、其友達に遇つて呉れるかと云ふて尋ねますと、これは聞き耳だと云ふて隨分喜んでゐました。處で今其品は何處から受けて來るのかと聞きますと九條のある店からだと云ふ事を云ひましたのでいづれ友達によく相談して見ると云ふて分れました。

翌日早速九條の其店に行つて見て色々聞いて見ますと成程よい商賣ですので其日から初めました。件の野郎とも二三日して遇ひました。其時は一寸面を喰ひましたが、實はな友達に相談して見たら其樣な商賣なら金が出せないと云ふので棄てるにも惜しい商賣と思ふて己が來て見たのだと云ふと心のよい野郎で其れは君がやるより仕方ないなと云ふ樣な事で今後宜しくと云ふて一杯遣りました。

割合によい商賣で日に五圓程の賣り上げがあります。店の方に拂ふのが其内二圓二十錢位月には七十五六圓の收入は確實です。同業者中でも私が一番の賣り手で他の者は私の半分位です。毎日方面を違へて出て行きます。最初の日は住吉方面に行き次ぎの日は此今宮附近其次ぎは天王寺附近と云つた樣にして一週間もしたら又元の住吉方面となるのです。全く同じ方面のみでは面白くもなし賣れ方も惡くなります。

 父は私が廿四歳師範校在學中に無くなりました。母とは其後私が卅九歳の時に分れました。學校は昔の寺小屋の高等四年を卒業して師範學校の三年迄行きました。三年の時に父が亡くなりましたから學校を止めて實務に就きました。當時の師範學校と云へば可なり聞えたもので三年半途退學の私でも縣下間々田村大津屋の支配人と云ふよい待遇で就職する事が出來ました。明治廿八年店の用務で東京に空き樽を買ひに出掛けた時定期を行つたのが間違ひで東京に居る間も惡かつたのですが歸つて尚々惡くなり別に店に迷惑を掛けた樣な事はありませんでしたが、面目無い事でもあり酒屋の方は止めて一時國に歸つて居ました。

少し資金を得たので東京に出て米屋を始めました。此度は前回の失敗に鑑みて定期は致しませんでしたけれど米屋の方は全く素人なので貸し倒れに倒れました。其れから本所の竹町で空樽屋を遣り之では相當に當りもしましたが其内小石川富坂町の飯屋に養子に入る事となつて空樽の方は止めました。

三十七の時其處を止めて下總の野田龜甲萬に働く事になりました。龜甲萬は茂木佐平治と云ふ人が行つて居ます。龜甲萬の醤油ですか之は素敵なものです。下總流山の上等味醂が入つて居ますし鹽水は一石の中に五斗の鹽が溶解した物を用ひて居るのです。麹だつて適當な温度で注意を拂つて作りますから全部眞黄色に出來ます。眞黄色に出來ないと甘味の足らぬものになるのです。之に上白の砂糖が充分入れてあるのですから何の云ひ分のあらう譯はなく眞似も何も出來るものではありません。其外野田の醤油、山サ、上取、ヒゲ田等は何れも龜甲萬に劣らぬ品です。關西の丸山等と云ふ醤油等はお話しになつたものではありません。其後は龜甲萬に居た關係からよき醤油屋の杜氏と云ふ事で何處から何處迄で杜氏で推し歩きました。三十五歳の頃は杜氏を止めて一時税務署の書記をして居た事もあります。

大正七年に神戸三菱の人夫として來たのが關西の地を踏んだ切めです。純然たる筋肉勞働者にならねばならなかつた理由は兩眼を惡くした爲めで何故兩眼が惡くなつたかと云ふと父母から受けた梅毒が年取つて眼に來たものです。大體私は小兒の時から此病には苦しめられて居た者で寺小屋では綽名を「高底ヘン」とつけられました。高底ヘンと云ふ意味は頭の眞中は此梅毒が出て五六年掛つてもてもよくならずよくなつても凸凹があつたので其樣な名を附けられたものです。長くブク▼/\▼と軟かで居ましたが年とつたら固まつて無かつた毛迄が生え出しました。其代り眼に來たのでせう。昨年の不景氣で收入もよくなし一時帝國製糖にも居ましたけれど一昨年八月十七日から此處に厄介になつて手傳等を遣つて居ました。親爺は兼平町の村上と云ふ人でした。三月から今の仕事に代つてお蔭樣で行つてゐます。

 身體は例の病氣の外何もありません。眼が惡くなつてからは本を讀みません。趣味は何もありません宗教は淨土宗で毎朝一卷宛あげます。未だ何も悟つては居ませんが毎日元氣で働けるのは佛樣の御蔭です。世渡りの祕訣とては之も佛教から來たものですが不問經と云ふ御經の中に不見、不聞、不語とあります。之は意味深長な句で見ても見ずと云ふ事聞いて聞かずと云ふ事語つて語らずと云ふ事で物事に就着せぬ意です。不就着と云ふ事にさえも就着せぬので此處を理解して手に入れたからは世渡りは極めて樂なもので私等は何處に行つても金が儲ります。只あまり職の代るのは惡い事とも思ひます。將來は少し金を貯蓄して醤油を調合して賣る氣です。大阪邊の者は鹽水の樣なものを醤油だ醤油だと云ふて喰べて居ますが、あの樣なものを調合して賣れば半分以上は儲ります。煙草は喫ひません。酒は十錢宛呑みます。飯は此處の食堂で喰べます。貯金は今三十一圓五十九錢だけです。 (六月三日)


四十二番 手傳 四十六歳
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 鳥取懸八頭郡若櫻町の生れです。そうですよい名の村です。村の産物ですか材木で杉檜等が出ます。紡績の木管は皆此村から出る位に云はれて居ます。父は七十二でまだ生きて居ます。母は私が幼ない時に亡くなりました。父の職業は表具師で檜等の表裝をしたり、其方の仕事がない時は襖でも障子でも張るのです。

 學校は中等の三級迄行きました。學校を出てから藥屋に奉公してゐました。漢方の方も洋藥の方も行つて居ました。其處で六年程草根木皮を切つたり包んだりして居ました。時には醫者の得意を廻らされる事もあり先づ其樣な事です。十九の時大阪に來てある洋傘屋に居ました。貿易商で當時ではかなり手廣く行つてゐた樣ですが今は無くなりました。一年程して國に歸り百姓をして居ました。又一年程して東京に出で暫く奉公をしてゐましたが五年程して幾分貯金が出來ましたので國に歸つて米屋を行りました失敗して藥屋もして見ましたが之も失敗しました。朝鮮の釜山で行商をして居た時は隨分よく儲りました。魚や野菜を牽いて賣つても隨分の益がありました。其處では家も借りて五年程手間等取つて暮して居りました。歸つて神戸で半年程手傳を遣り大阪に來てはズヅと此處に居て手傳をして居ります。手傳と云ふて主として車の鼻牽きです。一圓から一圓六十錢位迄の收入です。

 身體は極めて弱い方です。鼻も少し惡く胃が大層惡いのです。擴張して居るのです。眼も年とるにつれて惡くなつて來ます。其れで大便はつまる一方時にはうんと下つて見たり始末におえません。小便も何故か出ないので水は其癖呑むは呑むは澤山呑みます。甘い物が好きで喰べるから小便は出ねばならない譯ですが其れとも糖尿病にでもなつて居るのでせうか。身體さえ丈夫であれば何だつて出來るのですが女郎買だつて此六年が程一回も致しませんし只私の惡いのは身體の虚弱な事です。

 新聞は毎日新聞を讀みます。近頃眼が惡くなつてからは本を讀みません。詩を作る事が好きで自分でも幾分自信がない事もありません。絶句位なら今でも作ります。眼が痛いし身體が弱くて思ふ樣に働けないで心のみはやる處をですか。其れは今度のことゝして御免を被ります。謠曲と碁が趣味です。

 希望は何もありません。酒は少しづゝ飮みます。宗教ですか佛教や神道は時代錯誤故駄目です基督教が一等です。是非此宗教で行かなければなりません。

 何故に時代錯誤かと云ふ事になりますと二日や三日ではお話出來ませんが佛教は三世と云ふ事を説きます。三世と云ふ事は前の世で善き行をなしたるものは現在立派に生れて居る。現在惡い事をすれば來世で下賤に生れるか不具者に生れて苦しむと云ふ思想である。此樣な事は本當の佛教の本意であるか否かと云ふ事は分からぬが現在其樣に説いて居り其樣に説かないにしても佛教信者の大多數の者は其樣に信じて居る。果して此樣な事が眞理であるとしたならば過去の時代の樣に天皇の命令や、法律等が行はれなかつた時代に於ては善因善果惡因惡果で極めて結構なのである。然るに今日の如く天皇の命命が行はれ法律も充分に徹底せられてる時代では如何なる結果になるかと云ふと天網は天網で惡人を充分懲しめるのに法網は其亦上から惡人を懲らしめる事になるから懲罰が二重に行はれる結果となるのである。

稍具體的に之を云へば人が他人を理由なく殺したとすれば其人間が普通に法の適用を受く可き人間であつたとしたら捕えられて死刑に處せられるのみでは足らず來世に生れ出る時は下賤に生れて物質的に苦しむか若しくは不具者と生れて精神的に肉體的に苦しまねばならぬと云ふ事になるのである。如何なる佛の思召かは知らぬけれども決して正義の觀念から見れば正しくない。又之を善因あつた者に見ても此世で善因あつた山縣さんとか何とか云ふ榮位に登つた者が死んでから來世では再び天皇陛下等に生れると云ふに於ては之は明かに賞に過ぎたものと云はねばならぬ。

斯くの如きは佛なる者が賞罰の明に缺けたものと云ふ結論に達する從つて其樣な見解によつて世の中の事を審判する佛に對して崇拜の念を持つと云ふ事は昔法律が徹底せられなかつた時代には適當した宗教であつたけれども法律の徹底する現在では其必要は無くなつたのである。

佛教の時代錯誤であると云ふ理由はもう一つある。其れは佛教では家庭と云ふものは社會生活の單位であると見て之を非常に大事に考へる其結果祖先は之を崇拜せねばならぬと教へる子孫の爲めには是非美田を買ふて殘すべしと云ふて説いて居る。釋迦の考へは別として現在の佛教徒は其樣に信じて居つて盛に之を宣傳するのである此の樣な事は宣傳する價値のある品ではない。過去に於けるが如く子供が生れば餘計な者が生れたりと云ふては皆臼で潰したものである。又老人は皆山に棄てゝしまつたものである。其故今で姥棄山等と云ふて傳説が殘つて居るのは之であつて斯の如き過去の野蠻時代に佛教が日本に入つて來た當時の如きは大に家族を大事にせよと云ふて説く必要もあつたのであるが今日の場合に於ては姥を棄てる事もなく赤坊を臼で潰す事も無いのである。

之れは佛教等の教が社會全般に行き渡つた結果であって一面から云へば佛教の功勞を無視する譯にはゆかないが既に其樣な不道徳な事をする者が無くなつた時代に於ても尚家の事のみを大事に考へねばならぬと云ふて大いに宣傳すると云ふ事は猿に向つて木に登らねばならぬと云ふて説法する樣なもので其意義を見出すに苦しむものである。何故ならば現在では誰れも彼れも社會を踏み潰しても親戚や兄弟等も倒して自分の家の位牌を大事にせねばならぬと考へる者が大多數なるが故世の中で自分の家を尊ばない異例の人間があつた時にのみ佛教の家族中心説が功を奏するのであつて然らざる場合は單に間接に社會の事を抛つて置いて社會を食ひ物にして我が家を大事にせよと云ふ事を教へる事になる。現に自分等の親戚の者は皆富豪のみであるけれども私の家の事等を見て呉れる者は一人も居ない。而して彼等は皆熱心なる佛徒であるから佛教は總ての方面から見て消極的な一年生の宗教であると見なければならぬ。過去の野蠻時代には必要なもので現在は既に存在の價値のない時代錯誤の宗教なのである。


 耶蘇教が現代に適合した宗教であると云ふ理由を簡單に説明すれば耶蘇教は愛と云ふ事を第一として説く。愛と云ふ事は佛教等の如く小きな自分の家族位を愛せよと云ふ意味ではない。自分の妻子を愛するが如きは動物の通有性なるが故其樣な事は宣傳しない。人間が動物に超越してゐる點は獨り自分の妻子親等を愛するに止まらず一切の生命を愛し得る性質を持つて居るが爲めである。勝に爾の敵を愛せよと云ふて敵の爲に祈り敵迄も祝福するのである一切を祝福する愛の宗教なのだ。

耶蘇教は第二としては信仰と云ふ事をも説く信仰は早く云へば精神の統一と云ふ事故總て事を行ふに就いては精神を統一して行ふのが極めて結構な事なのだから之は耶蘇教の專賣特許でもないがよい事である。第一愛第二信仰と云ふのは當を得た説き方で尚此の以外によい宗教あるかも知れないが耶蘇教が現代に適合した宗教と云ふ事のみは慥しかに云へる。

 己は且て上海に居た事がある。其時に向ふの領事館員の云ふには大和民族は高尚なる民族なのだから足袋を穿かないで歩く事はならぬ。日本人は高尚な民族だから車を牽く等の勞働をしては一等國民として面目次第のない事だと云ふて我々の神聖なる勞働を迫害して居たのである。之は上海領事の惡いのでもあるまい。外務省等の遣り方であらうが斯の如きは日本人の海外發展を害する事甚しいのである。

かの仙臺萩の芝居を見ればよく分るのである。千松や政岡は何人も居る譯ではない千松や政岡は一人宛でよいのである。之と同じ事で足袋を穿いて車を牽かないで領事館や外務省邊に座つて威張てゐる役者は數は要らない。其外の子役端役の馬の足とか何とか云はゞ我々の樣な者が跣足で車を牽いて芝居に出る其樣な者が實際社會に何人あつても足らないのであるから、皆上等な政岡ばかりを作るのが一等國民であるといふ理由はない。西洋人にでも勞働者は居るのである跣足で車を牽いてもよいといふ事にして海外に職を求めさす樣にするのがよいのである。外務省は明かに日本人の海外に於ける職業を制限して居るのである職業を制限して置いて海外發展を云ふといふ事は矛盾といはなければならない。

外務省の遣り方の惡い事は他にもある。則ち女の出稼ぎ人。出稼ぎと謂へば言葉がよいが淫賣婦を海外に出す事を嫌がつて居る。其理由は淫賣婦が海外に出て醜を天下に曝すは恥ぢねばならぬといふにある。處が其樣な事を恥ぢて居れば海外發展も何も出來なくなるのである。誰だつて其の故郷に居たいのは山々で海外に出て行くについては餘程の事情が無ければならぬ。彼等は妻をつれて海外に出る等といふ樣な事は出來ない。而して之は異郷にある者の等しく經驗する處であるが女無くて何を異國に仕事が出來やう。人間は其れ程強い者ではない汚い話だが海外で働く者等は女に戲れるのが一等の樂しみなのである。之は人間として止むを得ない事で之を改正する事は出來ないから寧ろ彼等を殖民の先驅者として公娼として充分に病氣の方を取り締り乍ら支那なりシベリアなりに送るのがよい。支那でも露西亞でも日本民族よりは一段と下等な民族であるし盛に其樣な事をするのであるから彼等に對して何も遠慮する必要はない只病氣を取り締れば其れで結構なのである。公娼制度等の議論もあるが其實公娼制度に代つて男子の性慾を充たさしむる方法が無いならば獨身者は禪僧の樣に情慾を節するかさも無くば之を自涜の法によつて充たさねばならぬといふ結果になる。之は不自然といふ事になるもので合意の上での事であるから公娼制は之に代つて男子の性慾を緩和する方法が無いならば持續せしむるのがよいのである。其れでないと經濟上から人間は妻を持てなくなるし自然な方法で性慾を允たす手段が絶對にないとすれば法律も何も破つて女を誑す事、姦する事等が今よりは一層盛になつて來るので惡い結果を見る事明かである

 日本國民が家族制度を重ずる結果、他人を愛しない事は恐る可き程で一例で見れば熊本の清正公樣には癩病患者が澤山に集つて病の平癒を祈つて居る。日本人は道を通る時に一錢二錢抛つて呉れるのみで一向頓着しない。同胞が癩病にならうがなるまいが平氣である見るに見かねた米國の一婦人が癩病患者は可愛そうである。同じ人類と生れて何たる有樣であらうといふて療養所を建て呉れた。日本人も同胞の困難して居るのには同情するならんと思ふて之が維持費の寄附を募集して見たら喜捨する者が極めて少ないと謂ふ話である。之れで己は官吏であるから敬語のみは是非使ふ樣に頼むぞといひしかしお前等が病氣になつて死なうが己は知らんぞといふ樣な事はよくない事ではないかと思ふのですが之で失禮します。煙草も喫ひたいし下で待つてゐる人もありませうから。もう失禮させて戴きます。 (六月四日)


四十三番 電燈會社外線工夫 廿一歳
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 宇治川電燈曾社に出てから二箇月になります。誰からも紹介されたのではありません。一人で行つたのです。最初は一圓八十錢でしたが今は二圓十錢宛貰つて居ます。

 故郷は和歌山市です。父は五十七母は四十一です。家業は材木薪炭で家は何も不自由な事もなし大阪邊に出て來る譯は無かつたのですが大正六年私が十八の十二月事情があつて家出する樣な事になりました。父が外に女を持つたのでお母さんが氣の毒でならなかつたのです。親類の八百屋で暫く手傳をして居ました。三箇月程してある手拭屋に働く事にしました。大阪の染物屋は友禪屋にしろ惡い染料を用ひます。皆日本で造つたのばかりを用ひて居ます寒梅粉等も粗惡なものを用ひてゐますが出來上り丈は兎も角上手に見せます。京都の西陣等になれば多く獨逸の染料を使ひます。値段は日本製の三倍もします昨年國に歸つて一時亦家事の手傳をして居ました。

家出する前と同じ樣に面白くないので十二月廿五日復々家を出て大阪に來ました。何の目當もなく今宮邊を歩いて居ますと中學校の附近で誰か年恰好の人が共同宿泊所の事を教へて下さいましたから此方に御厄介になる事としました。最初は手傳が目的で天滿の寄場に出掛けて居ましたら宇治川電燈の請負をして居る鈴木の親爺が私達を連れて宇治州電燈の人夫に使つて呉れました。其後は直接鈴木の親爺の方に行つて宇治川電燈の人夫として働く樣になりました。其内今の外務の方に使つて貰ふ事になつたのです。

電車の線ですか片方に掴つた位では死ぬ樣な事はありません兩方握れば屹度死にます。人が電氣で死ぬ樣な事は稀です。外線までは落ちて死ぬるのが普通で仲間の中でも一年に一回位は其樣な事があります。高上りの上手は屹度落ちます。妙な者で下手は落る事は滅多にありません。私は商賣だと思つた勢でもありますが、初めから高い處に登る事を恐ろしいと思ふた事はありません。

 身體は丈夫で病氣した事はありません。新聞は讀みません。講談物が好きで讀みます。何も道樂がありません。相撲は弱いけれども好きです。信心は何もありません。將來は何になるか今の處分りません何分兵隊の方に掛つてゐますので其れを終えてからでなければ慥かな處が分りません。砲兵の廿七番といふ番號です。或は行かずにすむかも如れません。

 今の世の中には何も不平がありません。字治川には一千人位の職工が居ませうか誰も不平な者は居ない樣です。尊敬する人は誰もありません。父だつて有難くもあり有難くもなしといふ處です。 (六月七日)


四十四番 印刷會社職工 廿八歳
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 山形縣飽海郡本楢村の生れです。父は五十五母は五十三になります。兄弟は六人で私は三番目です。私の家は妙な事になつて居るので父も母も他家からの貰ひ子なのです。處が父が長女を持つ位になつてから祖父さん祖母さんの間に男の子が生れました。其處で止むを得ず私共の一番の姉と一しよにして家を繼がす事になりました。長男は家内があつて未だ分家もせずに居ます。

私は高等小學校を卒業すると酒田の伯母方に預けられる事になりました。之は伯母の家に子の無い處から私を養子にして家を繼がせる考へであつたらしいのです。伯母の家は繩の問屋です伯母は男勝りであり商賣も上手で財産は澤山にあるのですが私は其儘其家で修業して伯母の財産を貰はう氣にはなれず、商賣の傍、商業學校の別科にも遣られて何も云ひ分が無かつたのですけれ共何糞と云ふ氣を起して東京に走りました。十八の春でした。

東京に出て最初は小石川の或親分の厄介になつて手傳をして居ました。暫くして芝のある印刷店に入りました。石版屋です。石版と云ふのは獨逸から取れる一種の石に平面を造つて水と脂肪性のインキを用ひて印刷してゆく仕組で其石は脂肪と水とを同じ程度に吸收する石故立派に印刷せられます。此石は貴重な石で獨逸のみならず、日本其の他にも取れますが皆質が惡い樣です亦恰度石炭が堀り盡くされて地上に得る事が出來なくなる事が想像せられると同じ樣に石版石も今に無くなる時機があらうと云はれて居ます。

其樣な次第で今日は石版刷りに代つてアルミ版、並にジンク版等がありますけれど充分ではない樣です。芝の印刷屋の他に二三軒歩きましたが皆石版屋のみを歩きました。昨年八月大阪の方の景氣が如何なものだらうと思ひまして友人から高野と云ふ印刷店のある事を聞いて其店で雇つて貰ふ自分の獨り定めで大阪に出て參りました。

大阪に着いて早速其店を訪ね雇ふて呉れぬかと願つて見ましたが今店の方は人が必要であるけれども君の樣な保證人の無い者は店の規定として雇ふ譯にはゆかぬと云ひますから、私は疵理屈だとは思ひ乍ら如何に保證人許り立派な人でも當人が何も出來ないのでは仕樣が無いではないかと云ふて遣りますと當人は如何に出來る人間かは知らない當人が病氣にでもなつた時に引き取る人が無いのでは之も困つた話ではないかと申しますので私も少々言ひ負けた氣味で默つて居ました。すると然し君が其れ程に腕に自信があり忠實に行つて見る氣ならば勤めて見るのもよいであらうとの事でありましたから身元を分けて働く事になりました。此高野の若大將は慶應かを卒業した人で相當物の分つた人なのです。

 高野ではホンの足を洗つた許りで其後報酬等も少なし現在の安堂寺橋通り四丁目の中田印刷所に代りました。煙草の袋等を印刷するのが大部分で現在は支那行き南洋行きのものが主です。中田の主人は大阪製版會社の社長で遺り方は舊式ですが萬事行き屆いて居ます。

市田オフセツトですか、つまりオフセツトと云ふ機械で印刷して居るのです。英語のOffとSetで取つて置くと云ふ樣な意味です。石板の字なり繪なりを一度護謨に寫し取り之を印刷する仕掛けで、金屬等に印刷するには是非此機械でなければならず、普通の紙であつても仕上りが立派にゆきます。近頃は市田に限らず此式で行つて居ます。中田も之れです。私共も此機械で働いてみる次第です。

 病氣は何もありません。去年脚氣の氣だと思ひましたが其内よくなりました。鉛毒ですか印刷屋といふても活版屋は大概あの毒に侵かされて肋膜、肺病とゆく樣ですが鉛を使用しない印刷法ですから之に侵かされる理由もなく別に石版屋特有の病氣は何もありません。今の職業は好きも嫌ひも無く自分の手に入つた職業ですから行つて居ます。將來は止めて商賣人になりたいとも思ひます。小さくとも印刷店を開業して見たいとも思ふて居ます。

 新聞は大阪毎日、雜誌では實業の日本を取つて居ます。娯樂趣味は一切持ちません。信仰は何もありません。思想とても日本人と生れた故日本人の生活をすればよいと思ふて居ます。昨日かお伺ひしたでせう。○野○助等の如き彼は同室ですが年は取つても全く社會主義ですね。あの樣な者は今の世の中に生れたのが不幸なのです。もう百年か二百年もしてから生れゝばよかつたので今の世の中に通らぬ事をいふても仕方ありません。酒も煙草ものみません。

 何も不平等ありません。今の中田にした處で十時間の就業ですが休業時間は先方持ちです。市田なんぞは八時間の就業ですけれど休業時間は自分持ち故結局同じ事になります。同業者に頭腦の明晰な人が居ないのに物足らなく思ふて居ます。印刷屋故義務的に印刷青年團に入つて居ます。たしか第三軍團に屬する筈です。第三軍團は中田印刷所の者です。百名以上は居ります。軍團です。偉い名です。尊敬する人物は誰もありません。 (六月八日)


四十五番 掃除夫 五十六歳
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 石川縣金澤市に生れました。父は私が十一の時死にました。兄弟は五人でした。私は二男です。父が死んでから兄は身を持ち崩して家財を蕩盡してしまひました。私は金澤で石川縣專門學校といふのを出ました。中橋徳五郎でも堀啓次郎なども私共と同じ樣に此學校を出たものです。卒業してから東京に出て明治法律學校といふのに通つて居ました。恰度司法省に試驗を受ける筈でしたが、肺病が酷くなりましたので試驗を受ける事もならず。其れからは死ぬものと思ひ定めて出來る限り生を亨樂する氣になり酒を飮んだり女を買つたり許りして居ました。

其後は千葉縣や神奈川で巡査をしたり兵庫縣で税務署に勤めたりました。名古屋の新愛知に新聞記者をして居た時は大いに遺りました。軟派の小説を書いて居たのですが妖桑の方も掛け持ちで盛な事でした。色々なものを書きました。主として探偵小説で、名古屋高等女學校の女生徒が不品行な事をするのに筆誅を加へる意味で書いた愛の 柵【しがらみ】といふの等は可なりに當りました。侠婦お蝶といふのも人氣でした。侠婦お蝶の方は前篇のみを書いて止めになりましたといふのは當時日露戰爭で新聞記者が皆從軍するので私も是非にと思ひまして、社内の或者と競爭して運動をしましたが、遂に私の方が負けましたから、私は斷然社を止めて再び定めなき武者修業といふ事にしました。今から見ればおぼこい話です。

其後東京で放蕩に身を持ち崩して居ましたら、九州の何新聞でしたか北九州からか知ら鈴木天眼氏から侠婦お蝶の後篇是非に當社に於て書いて呉れといふ願ひでしたから、其氣になつて長野に居る知る邊から借金して其方に行かうといふ事になり金迄借りたのでしたが大分時日が經過して居ましたので先方から斷つて來ました。

 現在の職業ですか其後樣々遣りましたがお察しを願つて今は掃除です。汚い話ですが便所掃除です。御用を聞いて頼むとなれば便所の瀬戸物を外づし適當な場所でアンモニア等の附着物を悉皆水で洗ひ去り壺の方も汚物を皆壺に入れ洗ひ清めて石炭酸小量と石灰を撒いて置きます。最初は七十錢位戴きますが次回から得意となれば三十錢か四十錢宛適當したと思ふ位貰ひます。月收は卅五圓から四十圓何しろ初めてから三箇月にしかなりませんし得意も未だどれ丈もありません。自分の職葉として仕上げるには末だ一年も其上も掛ります。便所のみでなく塵箱のコールタル塗代へ、之もする樣にし樣と思ひます何せ人の感情といふものは妙な者で我々の掃除人夫に對しては井戸の水等は汲ませません。皆先方で汲んで呉れます。戸外の掃除といつたつて塵箱の塗代へ位より他には遣れません。南京虫退治もボロイ商賣ですがまだ行つて見ません。一人では何もかもといふ譯には參りません。

 此樣に成り下つたにつきましては櫻川一丁目の原田榮次郎と云ふ人の鐵工所で働いて居た時に鑄物の仕上げを行つて居たのです。普通の砥石で磨り減らしてもよい勘定ですが鐵工所には何處にも金剛砥石と云ふのが動力で廻轉して居ます。之れにかけると火を發して磨り減る仕掛で此火が眼の瞳孔の中に入つたものです。其日早速醫者に見て貰ひましたら之は大變だ傷は段々中の方に腐り込んでゆく今の内に硝酸銀で燒かねばならぬと云ふので硝酸銀で燒いて貰ひました。痛いの何のと尻が拔ける樣でした。翌日友人に話しますと其樣な醫者は宜しくないと云ふ事で天王寺南門の平野と云ふ醫者の處に行きますと獨逸舶來のデミシンと云ふ新藥であるから此藥で燒いて遣る日本で用ゐられるのは君が初めてだと云ふて此藥で燒いて貰ひました其痛い事と云つたらありませんでしたが腐る事はそれで止んでお蔭で此樣になりました。然し其爲め瞳孔の上は角膜樣の皮が出來て片方は殆見えなくなりました。精巧な仕事等は片眼故見當が違つてよくありません。片眼なら片眼で宜しいのですが片眼より惡いのです。醫者に通つたつて一文も呉ません。止めるにしても手當も何も呉れるものですか。貰へるのかも知れませんが先方の心にもない金を強要する事は私には出來ませんから。

 身體は丈夫です。學生時代の肺病は遊んで居る間に無くなりました。娯樂は何もありません。趣味も小説作る位の事で之れも今では時代遲れのもので今の人方が見れば笑はれるやうなものです。運動では藩で武道が盛んな處から撃劍は好きで遣りました。希望は金を貯へる事のみを考へてみます。煙草は喫ひません。酒は大酒でしたが今は十五錢に定めました。

 勞働運動等は對岸の火災ですね。人間自身が改造されなかつたら組織等を改造しても住み心地のよい社會が出現する理由がありません。昨日住吉で掃除して居ましたら藤永田の罷業團體が三々五々集まつて來ましたつけ。今日の新聞で見ますと二千五百人集つた樣に書いてありました。いえ未だ演説をしない間に戰爭が始まりました。而して幹部連は皆檢束されました。勞働運動とてもあの樣な處が落なのですから此年では遣れません。是非一儲け仕樣と思ひます。電話の附屬品を商はして呉れると云ふ人がありますから其方なら一つ遣れそうでもあります。現在の職業にも就着があります。年に三百軒の得意が無ければ之れも間に合ひません。尊敬する人は誰もありません。現在は貯金はもちません。 (六月八日)


四十六番 手傳 廿六歳
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 北區樋上町の高橋組に使はれて居ます。愛知縣八名郡大野町の者です父は私が二十九の時に清國人 美留鏡【びるぎゃ】の爲に殺されました。美留鏡ですか廣東生れの男で歸化人と云ふ話です。愛知縣大野町料亭主人殺しと云ふて一時東海筋等では大に流行した芝居があつたのですが御記憶はありませんか私等も其群に入つて花道から飛び出たり等したものでした。

 大體私の家は丸山と云ふて大野の町で蠶、繭、糸の仲買をして居たので一時は澤山人を使つて盛大に遣つて居ました。名古屋から東京迄の間では丸山で以て何處の問屋に行つても通つた程でした。私は豐橋中學校の三年迄行きましたが學校は嫌でしたから止めました。學校を止めてからは父の仕事を手傳つて東奔西走して居ました。父の名を看板に私も幾分同業者間に知られる樣になりした。廿四五の時は東京に出て散々遊んで居ました。放蕩して歸つては亦金を持つて東京に行くと云ふ樣な事で家庭を亂した罪は私にもあつたのです。甘五の年に母が無くなりました。

後妻に來たのが同じ町の身分ある人の身内の者で甞て大連で料亭を營んで居た女でした。料亭の女では商賣は出來ませんから別に一戸を作つて其處で料理屋を營ませて置きました。之れが過の根本で或日一人の紳士が伴を連れて其處に入り來り三日三晩呑み食ひしたものです。此者が清國人美留鏡で歸化しては橘默雷と云つてゐた男です。日蓮宗の僧で入しく身延の本山にも居た事のある者と聞きます。破戒僧で追ひ拂はれ東海道の宿々で惡事を働きつゝ大阪の方に向つて來た處なのです。一人の男は此村の百姓で前科者です。且つて獄中にある日美留鏡と知り合ひとなり、出獄後の計劃について共に契る處があつたが爲め、此の町を通るにつき件の男の家を訪ねて母の家で景氣をつけたのです。三日して二人は駄つて出て行かうとしたので、父は其時其家の方に居たものですから勘定はどうかと云ふて勘定を呉れなければ歸す譯にはゆかないと云ひ二三推問答をした末美留鏡は力が強いので父を捕へて絞殺し、もう一人が父の睾丸を捻ぢ切りました。最後に美留鏡は短刀で咽喉を刺し其で父は死んだのです。母は其間妙に手温い行動を取つたもので妾は夫の死については一切しらないと云ふて最後迄でし通しました。自分の夫が客の爲めに殺ろされるのを同じ家に同時刻に居たのに知らなかつたと云ふ理由は理解出來ない事です。

 當日の私の行動は妙な風で何も知らないで友人の巡査を警察に訪問する氣で警察にゆきヤアお久しうと云ふ具合で話し掛け樣とすると件の巡査が突然貴樣の親爺はやられたぞ殺されたぞと云ひますから何云ふんだと云ひますと來いと云ふて次ぎの間を開けたのです。見れば父は眞青になつて咽喉に手拭を卷かれ刺された處に大きな血塊が附着して居るではありませんか。其れから私は夢中で母の家に走せつけたり自分の家に歸つたり何が何やら狼狽して廻りました。

 美留鏡は其處から遠くない或寺の裏で捕えられました。法廷に立つた時の彼の答辯は明瞭で私は何年何月大連に在るの日當時何樓と云ふ料亭を開いて居た彼の女と知り合ひになつて情を通じて居た。其後日本に於ても常に彼の女と情を通じて居たのだが之を私の父に横取りされたので殘念でならなかつた。其處に行つた晩も翌晩も數回に渡つて情を通じて居たと云ふのです其れで殺人の原因は全く金錢關係では無いので癡情の結果だと云ひ張りました。金束は如何樣にも出來る自分だと云ふてきゝませんでしたが、調べて見たら之は眞紅な嘘言で現に父の懷中に十二圓餘の金のあつたのを取つて居た事も明瞭になり、翌年五月死刑になりました。

 母は其男と關係が無かつたのかあつたのかよく分りません。大連等の事を何もかも話したは商賣の上の上手だとしても其程度が過ぎて居た樣です。大連で關係した事實は無くとも其三日の中には男の辯に魅せられてどうかした行爲があつた樣にも思はれます。何せ父が殺されるのを知らぬではすまない話で辻褄の合はない事を云ふて責任を逃れ樣とするのは怪しからぬ事です私は母を半疑の中に出て呉れと云ふて追ひ出しました。其れに父の致命傷は睾丸でも無く咽喉でもなく絞殺だつたので首を絞めて人を殺す事は餘程の上手でなければ數分掛るとの事ですから其れを知らぬと云ふ事は責任を回避しやうと云ふ女の通有性から出たとしても餘りに面惡い事ですから私は追ひ出す事にしたのです。

 後の整理が大變で親類の人達が集つて父の財産を清算して見ると商賣を手廣くしてゐたので借財の方が遥かに多く、其れに私が父の後を相續する時に限定承認をすると云ふ事は信用にも關係する事故單純承認にせよと云ふ親族の意見で私の分けまへに當てられた財産は悉く父の負債償還に供せられ私には一文の遺産も割ら當てられなかつたのです。之に引き代へて法律上如何なる關係になるものか知りませんが私の妹二人當時既に嫁入つて居た者等に對して少なからぬ遺産が分配せられましたから私は當時藝者買ひばかりして居たから自分に一時財産を持たせない親族の仕打とも考へて少し愼んで居ました。何時迄たつても一文も呉れませんので何と云ふ馬鹿らしい事があるものであらうと思つて一日親族の主立つた人の處に行つて自分は過去に於ては身持ちが惡かつたけれど今後改心して商賣もして見る積り故妹の分に割り當られた財産中一分なりとも呉れと申しますといや其樣な事を考へて居たのか自分等では初めからお前が放蕩故財産をやらぬと云ふ意味ではないのである故何時迄待つたつてお前の品行が方正にならうがなるまいが妹の分をやる等と云ふ事はせぬ故左樣心得るがよいと云ひますから私は其場から其儘出郷して放浪に放浪を重ねました。

 主として手傳業をして來ましたが何時迄手傳を仕樣とは思ひません。殆ど十年も故郷に音信した事はありません。故郷の風も嫌いです。然し此頃妹の方から手紙が來て其樣な事をして居ると聞いて驚いた不自由な事があれば遠慮なく云ふて呉れとあり病氣だと云つて遣れば五十圓なり何んぼなり送つて呉れます。而して故郷に歸つて働く樣に云ふても來ますし私も首を曲げて見もします。然し今自分は獨身なのである故、何も故郷に歸つて働かねばならぬ理由はない。結構暮して居ると云ふて手紙を書いて遣りました。

 新聞は大阪日日を讀んでゐます。音樂は何でも好きで長唄、常盤津等、三味線も奏きます。其他には趣味がありません。芝居等も其樣に好きではありません。信心はありません。將來はやはり伯母と妹に遇つて考へて貰はねばならぬかとも思ふて居ます。日給は二圓二十錢平均、月には六十圓餘にはなります世の中の事は何も知りません。 (六月九日)


四十七番 手傳 四十五歳
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 兵庫縣明石町に生れました。父七十六母は六十四です。家業等は菓子屋で學校は四級迄行きました。

 そうですか八級迄であつたものでせうが私は何級から入つたのか一年程して四級になりました。學校出てから大阪に來ました。父の友人で松屋町に菓子屋をして居た人の處で見習ひをしてゐました。三年半も居たでせうか。京都にも一年程居ました二條通の或菓子屋で働いて居ました。それで女學校等の講習にも行きました。本に書いてある通り砂糖何匁と鷄卵何箇。之に粉を何斤入れて此樣にすればカステラが出來ます。此通りと云ふ樣にやつて見せます。自分が商賣人であるなら出來ると思はれてはなりません。皆樣の中で誰でも行つて御覽なさい。と云ふて元氣な女生從さんに行らせて見るとやはり同じに出來る。して見ると誰が慥へても出來ますねと云ふた樣な譯ですが周圍に皆樣が立たれるのと火のイキリとで暑いのであまり結構ではありません。

徴兵適齡の時には舞子に居ました。吉川元三郎菓子店と云へは舞子一等の菓子屋で大臣方が舞子に來られた時等は皆此家から納めます。私は此處に一年程働きました。補充の籤遁れで軍隊には行けませんでした。其後家事の手傳をして居ましたが、丹波の金持が舞鶴で新に菓子屋を開くについて働く氣が無いかと云ふて呉れる人がありましたから私は其方に行きました舞鶴のヤスミ町と云ふに開店賑々しく店の名前は私の意見で勇敢堂と附けました。此店は其後日々に隆盛に赴きましたが私に對しては報酬を充分に呉れませんでしたし具合の惡い話もあつて此店を出しました。故郷に歸つては明石でいさご煎餅と云ふ煎餅を賣り出して可なりに當てました。此煎餅は色々な方面から研究して私が發明したので、いゝ▼▼魚等は少しも入れてありません。

商賣の方は好都合で行つて居ましたが、これは其以前から問題になつて居た事で妻の兄が數無い妹を其の樣に遠くに遣る必要はないと云ふ意味で無理に妻を連れて歸りました。私は暫くは働く氣にもなれずに居ました。其れから氷屋に養子に參りました。其處やめて明石で自分で菓子屋を營んで居ましたが一昨年砂糖の暴落で大失敗しました。小さい商賣人はどんな事をしても利益は少ない樣になつて居ますので、糖價が騰れば騰つたで問屋の方で契約よりも高く渡すと云ふ事になり下れば下つたで契約の通りに渡される、其れにお客の方からは砂糖が下つたのに菓子が高いと云ふては苦情を云はれる樣な事ですから何れにしても儲けは少ない樣に出來てゐるのです。其後一時神崎の石屋に手傳をして居た事もありました。今は石屋の手傳等はしませんセメントが毒で手の皮が皆剥げますので。收入は比較的よくて二圓以上にはなつて居たのですけれど、今は船場の大麻で厄介になつて手傳をしてゐます。儲けがないので困ります。市役所の仕事は割がよい樣です。

 病氣はありません。新聞は間がありませんから讀みません。本等も假名がついて居ないと皆目讀めませんので讀みません。運動は何もした事がありません。暇な時には活動に行つたり將棊をさす位の處です。

 此樣な事は何時迄も出來ませんから小さくとも菓子屋を始めたいと思ひます。資金は弟や妹に相談すれば出來ない事もありませんけれど自分より下の者に頼むのも實際苦痛なものですし、此樣な手傳等をしてゐます。勞働なら手薄が一等宜しうございます。何も責任のない仕事ですし收入だつてあまり少なくもなし骨も折れません。

 煙草は好きで喫ひます。お酒も一合位に定めて居ります。喰べ物で好きなのは西瓜です。西瓜ならば御飯を喰べないでも戴きます、失禮な話ですけれど、尊敬するのは昔厄介になつた菓子屋で大畑と云ふ人です。勞働運動等には何も興味はありません。此間の米騷動の時は私と同室して下宿して居た男が引き立てられました。其男は米屋を征伐するのだからと云ふて懇意にして居た前の煙草屋の親爺さんの分もとつて來ました。二十錢程抛つて置いて二斗か三斗か知らんが擔いで歸つて煙草屋と分けたのです。御蔭で二週間か拘留されました。煙草屋も一週間程行つて來ました。平常は非常に人のよい人でした。私は演説が面白いからと云ふて聽きに行くでもありません。宿泊所でも皆面白いと云つて聽きに行きますが傍杖を食つたりすると迷惑です。 (六月九日)


四十八番 物品配達 四十九歳
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 和歌山市で生れましたが生れて間も無く大阪に來ましたから和歌山の事は何も分りません。父は大阪に引越してから三年程して亡くなりました。慥か私が五つの頃でした母は私を産んで死んだのですから全く記憶しません。兄弟は八人ありましたと云ふ話ですが皆次ぎ次ぎと死んで私と兄と二人になつてしまひました。物品配達と云ふと二三軒の建具屋等に相談して置いて其店で品物を賣つた場合には自分で送らして貰ふ事にしてあるのです。

 父が死んでからは難波の伯母の家で大きくなりました。小學校は十一迄寺小屋の樣な處に三年か行きました。卒業して阿波橋の玉田とか云ふ呉服屋に奉公して居ました。品物は今頃とは全然違ひますからとの樣な物を商つて居たかと聞かれてもお答が出來ません。其頃は南部物と云ふと一番上物と云ふ事になつて居ました。南部で出來ると云ふ意味です。銘仙も米澤銘仙位しか無かつた頃ですから皆違ひます次ぎは相生町の入江と云ふ呉服屋に代りました。其處には一年程も居ました。或時は紙箱を行つて見たり、或時は菓子の行商をして見たり、菓子屋は主として餡類でしたが色々な事を致しました。腕さへあれば何でもするのですけれども生れつき身體が虚弱なので何をしても一人前と云ふ譯にはゆきません。先づ虫の樣な者ですね。今の配達は行り出してから四年程になります。一昨年頃の景氣のよい時は日に五六圓になつた事もあります。今では一圓四五十錢にしかなりません。月に四十五圓、間に合はない仕事ですけれど外に行く可き道も見當りませんから續けて居ます。

身體は強くありません。胃と疝氣は十七八年前からの持病で其れ故思ふ樣な働きも出來ないで居ます。新聞は朝日、毎日等を讀みます。雜誌と云ふて講談物位なものです。信心は別にありません。家の宗教は法華です。私は天滿宮を拜みます。將來も現在も希望等はありません。煙草は嗜きです。酒は飮みません。喰べ物は淡白なものを好みます乾物や鯛等です。主人等に對しては何も不平な事はありません。少々位なら前貸しもして呉れます。災難が無いなら其れで結構です。慾な事は何も望みません。尊敬する人は誰もありません。 (六月九日)


四十九番 手傳 卅七歳
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 市役所の京橋の寄場から出て居ります。家は士族で維新の際澤山の公債を貰つたので之を活用すれば父にしても吾々にしても此樣な事になる筈はありません。けれど其公債を賣つて始めた商賣が彫刻屋でした。あの名古屋で出來る七寶燒の臺等を作る商賣です。主として輸出物になる樣です。處が所謂士族の商法で職人等に借り倒されもし經營の方針をも誤つたので兄の大きくなる時分は未だ幾分暮しても居りましたが私の頃は見るも憐れな事になつてしまひました。爲めに私は小學校の一年生だも入つて居ません。親として子を教育したいのは山々なのですが家業が急がしかつたことや何かで其れも出來なかつたのです。其頃は職人も居るか居ないかで父自身刀を持つて彫刻しました。父ですか、名人でも何でもありません。職人から教へられて初めた商賣なのですから一人前も怪しい位です。兄弟は私と兄と二人きりです。其後私も奮溌して勉強し今では兎に角手紙の文句を讀んだり書いたりする位は出來る樣になりました。

 家事の手傳は十八歳の時迄で致しました。彫刻ですか。長い間關係しないから分りませんが一度した事ですし素人よりは増でせう。十八歳の時出郷し大阪で服部と云ふ醫療器械店で働きました。私はデツキグラスを拵へて居ました。此のデッキグラスを造るには玻璃を薄く大きく吹いて之を玻璃截で大きく截ります。此場合は元來圓い形のものを截つて平面に作るものですから多少圓味があります。此圓味を無くする方法は一定の温度に熱して平面と平面で壓し平かな物にするので之が私の仕事です。其温度の加減で玻璃が滅茶々々になりますから餘程注意せねばなりません。此方では私も玄人です。之を截つて小さくしさへすればデツキグラスになります。最初のを作つてから平面に打ち直ほすのは二三日以内にしないと玻璃が鹽を吹きますから出來る丈早く致します。玻璃には硝石が使つてありますから大慨鹽を吹くのです。

廿三歳の時神戸で仲仕を始めたのが勞働界に身を投じた最初です。其後賣藥もし炊事等もしましたし一々お話するのは叶ひません。一昨年は神戸で沖仲仕をして居ました。其頃は月を平均して一日四圓位にはなりました。昨年は東京深川から經理部の樺太募集に應じて五月から十月迄行つて來ました。經理部の仕事は宜しいです。飯代は先方持で四圓宛ですから、誰も逃げ樣と云ふ樣なもの等はありません。鍵も何もかけません。歸ると云へば歸しますし仕事が無くなつても居たかつたのです。本當の北海道募集にも行きました。此世の地獄も見た譯です。

 北海道の土方部屋に行つた經驗ですか。大正元年五月上野のベンチでやられました。ポン引の風體は商人體でした。其他の風體のも居る事と思ひます。型の樣に大變な儲け口があると云ふ譯で北海道募集本部に連れられました。件の本部には北海道募集の外に鬼怒川水力の募集も足尾の募集もありました。まるで屠所の羊の集曾所です。皆首垂れて咳する者もありません。監視は十人程で嚴重を極め、何が何やら分らずに翌日一行三十人汽車に積まれ、本部からは五人の見送り人、汽車中は二人の看守で仙臺に着きました。仙臺では彼等は屹度交代するのだそうで先の看守に數倍した猛惡な相貌のが二人入れ代つて來ました。

停車場で引き渡につき一場の演説あり、諸君は既に薄々知つても居樣が北海道に行つて働く事となつて居るのだ。然るからはヂタバタしても鐵道沿線には二重にも三重にも網が張つて居る事だし反つて身の爲めにならぬ事故眞面目に働き貫いて歸る事にして貰ひたい。といつた趣意の演説でした間も無く汽車は出ました。其時一人汽車から飛び降りた者がありました。私は其樣な約束で來た者ではありません勞働等はした事がありませんしどうぞ堪忍して下さいと云ふて停車場の柱に掴つて泣き立てるので總立ちとなつて此の契約を破つた不徳義者を汽車に乘せ樣としましたが、遂に汽車は驛を離れてしまひました。汽車が仙臺を出た時、小使として二十錢の前借が許されました。青森でも同じ樣に宿屋から護送應援の屈強な若者が五人手に棒を持つて出て來ました。船中で亦二十錢函館から下富良野迄、下富良野は何郡でせうか何國でせうか。地圖を見れば分りますが、下富良野については部屋の方から乘馬隊が迎ひに來ました。腹が痛いと云ふて動かない二人には隨分往生した樣でした。棒で撲つ眞似をしたり仁丹を呑ませたり手を代へ品を代へて部屋迄連れて行きました。

橋本組が請負した工事を梅原龍吉と云ふ奴が下請けして居たのです。梅龍と云ふと橋本組の中でも餘程顏の賣れた男で仲々推し出しのよい男でした。妾等は▼▼へて居る樣子が見えませんでした。其部屋の附屬した處に家があつて妻もあり子もありました。嬶は美人ではありませんでしたが娘共は二人ありまして是れが梅龍の子かと思はれる樣に美しいものでした。姉の方は公然と大工の夫を持つて居ましたが、妹の方は未だ本當の夫は持つて居ませんでした。十八か知らんで 棒頭【ぼうかしら】の或者と關係がある樣に噂されて居ました。此棒頭と云ふのは棒で以て人夫を指揮すると云ふ意味で人夫の看守人と云ふ格です。最も惡い奴等で前科のある者が多く中には其昔人夫で北海道募集に應じて來た者等も居るのですが今は親爺の配下で恐ろしい威張り方です。

 五月から十月迄の間に脱監者は三人ありました。全部で二百人の者が使はれてゐたのですから是等が團結さへしたら如何に強い親爺だらうが棒頭だらうが何でもないのですけれども一致しません。其中で力の強い者とか物事の分つた者とかは常に手下に置いてあります。酷使しない樣な方針も取て居ますし其等には時には酒を飮ませたりもするので犬になり親爺の方に身方をします。其故親爺を叩き殺す等決して出來ません。又親爺は棒頭にうんと撲らせて置いてもうよい其樣に撲たぬ方がよいと云ふ樣な事を云つて皆の爲になつて居る樣にも見せ掛けます。棒頭に充分撲らせて見て居る時は心地よげに見て居ますからもうよいと云ふたつて親爺を有難がる樣な者はありません。死人ですか二百人中四十人程死にました。皆脚氣になつて死ぬ樣です。病氣になつて病院もなし、棄て置きます。皆死ぬ迄使つて使ひ殺すのです。怪我した者等は川に投げたのだらうと思ひましたがトロツコに入れて夕方何處にか運んで行きました、私の部屋は音信は絶對にさせぬ樣になつて居ました。

 休日は二日ありました。先帝の死なれた翌日は親爺も考へたものと見えて休ませました。盆の十六日も休みで兩日共正金一圓宛貰ひました。正金を手に握つて見たのが此二圓だけでした。休みとて部屋の錠を開ける事はありません。開ければ逃げますから、正金では百姓が工事をして居る處に餠を賣に來るのを買つて喰べます。十月解傭された時は二圓貰ひました。お前は之れだけの前借があるだらう其に之れ丈しか働いて居ない取る處は一文も無い。反つてお前を連れて來た爲自分の方では大分損をして居る勘定である。然し親爺をして居て見れば損はして居ても草鞋錢を出さぬ譯にもゆかぬ故二圓丈と云ふて私は其を貰つて解傭されました。有難うもない二圓ですが何しろ部屋を出されて世の中に出る事は喜ばしい事に違ひありません。何もかも憎い中でポン引きが一等憎い樣に思はれます。

 病氣は何もなりません昨年九月經理部の樺太募集の時脚氣になつたのみです。樺太からはそれで皆より少し早く歸りました。新聞は大阪日日を讀んでゐます。宗教は日蓮宗ですが先祖からの宗教だと云ふ丈の事です。將來は何になるやら見當がありません。食ふに追はれて嫌な事でも行らねばならぬ樣になつて來て居るのですから將來の目的も立てゝ見ても當にはなりません。煙草は嗜きです酒は一合程呑みます。趣味とては女郎買ひが好きな位です。
 世の中や他人樣に對して不平等云ふのは自分の力が足らぬからで不平を云ふのはよくない事です。故人では乃木大將を尊敬して居ます。 (六月十日)


五十番 機械運轉 廿四歳
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 大學病院の新病舎に未だ竣成しない箇所がありましてコンクリの捲き上げをしてゐます。仕事は簡單なものですけれど新米だとバケツを回轉さす時に機械を惡くします。昨年の七月廿九日から初めました日給は二圓五十錢で仕事は困難な事は無し、よい仕事です。よい仕事であればこそ今日迄一度も外の仕事に代らないで働いてゐます。然し今迄は誰の下と云ふ事も無く直接病院の方から使はれて居たのですから働きよかつたのですが、今度京都の山本組とかに請負になつたと云ふ事で一昨日から引き繼ぎになつた筈です。
私は此樣に妙な病氣になつて毎日病院に通つて居ます。四月に切つた傷が今に癒りません別に痛い樣な事はありませんが働く者には邪魔になります。咽喉ばかりでありません、腰の方にもあるので此方にも出て來たと云ふ事です。眼ですか之れは何も此病氣とは關係が無い事だらうと思ふて居ます。昨日蚤か何かに食はれて痒いので爪で掻いたら此樣に腫れました。ヒヨットしたら何かの黴菌でも入つたのではないでせうか。一昨日風呂で廿五圓程盜れてしまつたので硼酸を買つて洗ふ事も出來ない始末です。今朝事務室の方から一圓借りて故郷に電報を打つたりしました。之れ以上働かうにも身體が自由でないし、醫者も眼に見えてよくなる病氣ではないから郷里に歸つて氣長く治療する方がよいと云つて居ましたし、今更不自由な身體となつて歸るのは面目ない事であるけれども歸る樣になるものと思ふて居ます。仕事は全くよい仕事で大正十四年にならねば全都竣工せぬと云ふ事ですから働く積りなら未だ居れるのです。大學病院の舊病舎は學校になると聞いて居ます。

 健康は此樣な事です。新聞は朝日新聞を讀みます雜誌は讀みません。芝居には時々行きます。働くのが運動で別に運動と云ふて致しませぬ。家の宗教は眞宗です。將來は金を殘して商賣をする積りです。酒も煙草ものみません喰べ物は何でも戴きます。社會問題勞働問題等には何も趣味を持ちません。 (六月十日)


五十一番 手傳 四十三歳
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 生れは伊豫の松山市です。父は一昨年亡くなりました。母は六十七で達者です。三つヶ濱の附近、伊豫富士、道後の温泉も近くて遊ぶにはよい處です。烈女松江の墓は三つケ濱の海岸にあると聞いて居ます。松江は美人ではなく烈女と云ふ事で義の爲めに命を棄てた女です。家業は製氷、製麥で動力を用ひて遣つて居ます。學校は高等二年迄行きました。卒業後伯父の家で伊豫絣を織る手傳をして居ました。宮川式の專賣特許の機械を使つて居ます。一日十五本位は織れませう。私も久しい間自宅で伯父の家の仕事を下請けさせて貰つて居ましたが、此不景氣で伯父の家も大部苦しくなり、私は事業縮少の爲め職を失つたものです。

 大正九年六月妻と子供は妻の家元に預けて十二日出發大阪に來ました。暫く知人の家で厄介になつて居ましたが紹介する人があって今宮の黒鉛興業株式會社に入り天然石を粉碎する機械を運轉して居ました。身體が強いので人の倍も仕事が出來ますし二ヶ月程したら君は仕事も出來るし監督の方に取り立てゝ貰へると云ふ内約も得て居ました。處が突然會計をして居る男が途方も無い金を使ひ込んで東京で其發覺を恐れてか自殺をしたのです。私もよく知つて居ります。肥つた色の白い立派な人でした。新聞にも出て居りました。社長の信用を得て居た人なそうで以前は陸軍の大尉だとか云ひます。其爲工場が立ち行かぬ樣になり間も無く閉鎖せられました。全く私も非常に樂しんで居たのでしたけれどつまりません。東京で腹を斬つたのですが、骨は大阪に持ち來り玉造の奧さんの處で葬式した樣に聞いて居ます。恐ろしい虚榮の強い奧樣だつたと云ふ事です。主人は彼の女の虚榮の犧牲になつて死んだと云ふ話でした。

其後仕事はなし今更國に歸るより何か適當な仕事でもあらば大阪で遣り度いものと思ふて居るのです、どうせ景氣がよくなる迄です。機は賣らないで其儘全部藏つてありますから仕事には何時でも掛れます。私は是れで海軍の恩給があります。志願兵で佐世保の海兵團に入りました。五月廿日の黄海の海戰にも參加しました。敵の主艦ツエザレウヰツチを砲撃して働かぬ樣にしたのですけれども戰が夜に入つて驅逐艦の襲撃を恐れた爲め我が艦隊は芝罘に引き止げました。驅逐艦の戰鬪もバルチツク艦隊が東方に向つた時でしたから軍艦を無くする事を恐れた爲め充分にゆかず ツエザレウヰツチは他の艦に引かれて旅順に逃げ込みました。今の處では大砲のみで軍艦を撃沈する事は不可能な樣です。戰爭は決して愉快なものではありません。初瀬、八島が同時に機械水雷に掛つた時等は全く泣きました。私は敷島に乘つて居ました。三艦が共同動作をとつて居たのですが初瀬が突然機械水雷に掛つて一直線に空に棒立ちとなつたのです。船尾から沈み掛け海水が漸時船室を侵し行くにつれて船首は高く空に立ち艦は腹を見せるに至つたもので人々は船尾から船首に向つて逃れましたが少し走つてバチ▼/\▼と海中に落ちました艦は再水平に歸り水が全艦に滿て初めは深く海中に沒入したのです。大艦が沈沒した後は徑何十間の大渦が幾つて卷いて人も器具も艦上にあつた一切の物は一度海中に吸ひ込まれ人でもボートも數分して一つ二つと海上に浮び出るので餘程元氣な者でなければ助かりません乘組員二百四五十名中の大多數は溺死しました。ボートを下ろして救ふべきは救ひ機械水雷の多い附近に居るのは危險故方向を轉じて八島敷島は各異る方面に懸命遁れましたが八島は又も掛つたのです。此度は破損の程度が餘りでなかつたから乘組員は全部助かりました。其後肋膜になつて肋膜の間から多量の水を取つたりしました。水は未だ赤味のある中はよいので青味を持つ樣になれば必ず死ぬと云ふ事です。爲に日本海の海戰に參加する事は出來ませんでした。當時は朝鮮鎭海灣内の山東と云ふ處に守備して居ました。遠く砲聲を聞くのみでしたが此處に掛つたら最後露艦は全滅と云ふ事が明かに分つて居ましたから日本艦隊が敗ける樣な事に無いと信じて居ました。此樣にして私は現役八年全部務めぬいた者です。

 病氣は何もありません。新聞は時事新報を讀みます。雜誌はとりません。趣味は何も有りません。公園等を散歩するのが一等樂しみです。家の宗教は法華宗でも私も拜む事は拜みます。將來は景氣のよくなり次第伊豫絣の方を行ります。男の子が一人ありまして十五になりますが大阪に來て女(妻)の伯父の家で働いて居ます。煙草は喫ひます、酒も少しは遣ります。勞働運動等大分喧しい樣ですね。何の團體にも屬しません。生命保險には入つて居ります。 (六月十一日)


五十二番 手傳 卅一歳
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 大阪東區清水谷に生れました。父は六十二、母は六十になります。私は長男で下が五人あります。四人が女で弟が一人尋常四年迄行きました。學校卒業後は十七になる迄家の手傳をしました。

十八歳の五月東京が見たいので逃げて上京しました。淺草の福富町で鍛冶屋の丁稚を二三年して都合の惡い事もあり其家を逃げました。逃げ出して五日程は金がありましたから其處此處で宿り一夜上野のベンチに腰掛けて思案して居ますと後で其れと知れたポン引が來てよい働き口がある。來ないか。と申しますから行きました。五月頃でした。御徒町の橋本組と云ふに引込まれ三日程したら仲間が六十人程になり護送者三人で出發。仙臺で交代、青森では護送應援者が五人來ました。函館から蒸氣で釧路に渡り釧路から十勝に戻つて其處で土方部屋に入りました。途中逃げた者が青森で六人之は便所から逃げたのですが其處邊廻つて錢は無し仕方が無いと云ふて又歸つて來ました。釧路から十勝迄の汽車中で逃げた者が五人汽車の進行中に逃げた者で皆玄人です。人の知らん間に逃げたのではありません。皆見て居る處で逃げました。護送者は抛つて置け逃げても直き捕へられるから等と云ふて默つて見て居ました。

十勝で五箇月働きました。私は四度逃げました。未だ働いて間も無い頃でした晝の間に部屋の縁の下に瀬戸の破片を入れて置き夜着守の眠つたのを見て縁の下に潛り作業に掛りました三時間程掘つたも外に出られる樣になりました。逃げ出た迄は善かつたが何しろ終夜の作業で出た頃は東の空が白み出した頃でしたので四里程逃げたら後から追ひ手が馬で來て直ぐ引き立てられました。撲られたの何のとて死ぬ目に遇ひました。其夜は、前に拵えた拔け穴から亦逃げました。穴は前夜逃げる時に草で匿して置きました。此度は十里も逃げましたが外の部屋の棒頭に捕かまつて私の部屋に戻されました。其時も打たれました。其晩も同じ穴から逃げました。三度同じ穴から逃げたのです皆忍術だらうと云ふて恐れた樣です。出口を上手に匿して置いた爲め分らなかつたので誰も縁の下から逃げた者は未だ無かつたと云ふ事です。此の度は山に逃げ込んで山から山へと歩き二十里も逃げたと思ひますが茶屋の女があなた働く人ではありませんか私の方では前借を貸て働いて戴く仕事がありますからどうですと云ふので其れではと云ふて働く事にしましたら其家にも既に棒頭が居てお前は何部屋の者だらうと云ふて私を引きたてました。其れで穴を掘て逃げた迄はよかつたのですが皆失敗しました。其時も散々死ぬ程打たれました棒頭も一人私も一人だから組みついてやつつけやうとも思ひましたが腹も減つて居ましたし向ふは匕首を持つて居るので勝てません。野郎此穴から逃げ居つたと云ふて皆塊消たと云ふ事です。一度は帳場から逃げましたが直ぐ捕へられました。

惡疫が流行して部屋の中の過半數は死にました。病氣はチフスか何かであつたと思ひます。我々の親爺は三谷と云ひました。嬶だつて似た樣なものですが子供は可愛い子で姉が七つに弟が五つでした。出る時は草鞋錢だと云つて二圓呉れました。青森迄渡つて其處からは青森で三日盛岡で四日と云ふ風に處々で働いて少しの金を貯へて汽車に乘つたり歩いたりして來ました。一の關では三日半働きました。平では炭鑛の人夫として働き日立でも銅山の土方をしました。東京迄一箇月で來ました。處々で働いた方法ですか此の町の親方は誰かと云ふて尋ねますと熊六なら熊六だと教へて呉れます其處に行つて自分は北海道で惡人の爲めに酷使せられた者である。路銀に窮して居る聞けば親方は憐み深い方であると云ふ話だが少々御無理が願ヘないであらうかとか何でもよいから三四日使つて下さらないだらうかとか云ふて頼むのです。地方で親方とも云はれて居る者なら少しなら路銀を出して呉れる事もあり仕事を與へて呉れぬ樣な事はありません。

東京では淺草町で一年餘り手傳をしました檢査は大阪で受けましたが尺足らずで免れました。北海道の部屋を潛つたのも身體が小さいから…。三年が程はロクロ首を行りました。其れから妊娠もしました。妊娠と云ふのは子供の腹の中に居る間のをアルコールに入れて皆に見せるのです。喜劇役者もしました。堀江の明樂座や千日前の常盤座に出演して相當の喝采を得ました。其れから素人浪花節素人落語と代つたのですが大體から云へば私は土方です。あれから後に又北海道募集に應じて此度は汽車が仙臺に入る頃山道を徐行して居たので片手片足を窓に掛け護送人に一禮して失敬しました。親方は取りません。各募集に應じて二三度逃げました。逃げないでは死んでしまひます。逃げるには募集も有難い機關です。

 身體は眞に丈夫です。新聞は大阪日日が好きです。雜誌は講談物ですね。小商人でも將來は商人になるつもりです。八百屋と氷屋をしやうと思つて居ます。煙草は喫ひますが酒は呑みません。 (六月十一日)


五十三番 遞信局外線工夫 廿五歳
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 一體其樣な事を聞いて何なさるんですかどうも腑に落ちませんが。生れた處は兵庫縣伊保郡越部村です。父は五十五母は四十六、母が後妻だから別に惡く當ると云ふ譯でもなく叮嚀にして呉ますけれど何か水臭くてなりません故に十五の時に家を出ました。本當の母は私が七つの時死にました。父は土地や家屋のブローカーをして居ます。

尋常四年を卒業してから暫く商店でレツテル製造の方に關係して居ました。賣方の方は二年程しました。次は料理屋に行きました。私が惡くなつたのは料理屋に居た爲めです。十九迄料理の方ばかりして居ました。京都の梅村にもゐましたし、日本料理の方なら一人前だと思ひます。廿一の年に檢査は甲種合格で十一月入營となつて居た時ですが東京に遊びに行かふと思ふて北海道募集に應じ行きました。赤羽で大阪から行つた人の男を連れて逃げました。誰だつて地方の地理に明るかつたら逃げる隙があります。深川の寄場で働いて居ました。十一月旅費を貰ふて淡路由良の陸軍要塞の第四中隊に入營して行きましたら檢査の結果不合格となりました。此樣な事を聞いて何するのですか。

足尾にも行きました。足尾は通洞、小瀧、本山と三つになつて居ます。私が最初に東京に行つた折地理もよく分からず淺草のベンチにボンヤリして居たらポン引きが來て大男でした、。三圓程でよい口がある云ふて引き立てました。南千住の其名も悲しい涙橋の袂に連れ込みました。三日程して三十人程になつた處が出發だと云ふて列を造つて淺車の觀音劇場の處に橋がありませうがあの處にお寺があり其の中に山口てあります。一應其處で勢整へして淺草から足尾の銅山に行きました着物を持つた身體のよいのが一番に選まれます。男オヤマですね。私は着物を持つて居たので第七番に選まれました。よい方です。着物は質に取ります。山田の下部屋と云ふのに入りました。翌日形のみの身體檢査があつて直ちに抗内に入りました。私の頃は十番坑迄ありました。一番坑は一階で二番坑は二階となつて恰度三越のエレベーターと同じに立坑が四千尺も下つて行くのです。下に行けば行く程よりよい鑛石です。足尾迄の旅費が前借で殆永久に奴隸となるのです。私は山を越えて逃げて來ました。仙臺の發電所を作る爲めの募集にも應じましたが途中で汽車の中で逃げました。山口縣の複線工事でも逃げましたし、高野の工事でも逃げました。何が惡い事です。何時迄働いたつて使ひ殺ろされる迄の事ですもの皆逃げます逃げれない樣なのは親方も褒めはしません。働く方が惡いのです。其は其位の考が無いでは世渡はなりません。今は遞信局の外線をして居ます。

 身體は丈夫です。新聞は何と云ふ事無く讀みます。此本ですか。玉川お芳だね。女侠客で私と同じ樣に幼ない頃親に分れ色々苦勞して藝者になつたり。牢に入れられたりしたけれど後で侠客の養女になつて自分も女侠客となつたと云ふお話。今頃ならば東京の赤爛曾の女達の樣なものでせう。つまりません今はもつと大きな事がありますね。友愛曾等のはもつと大きい。信心は東京に居た時は救世軍で働いて居た關係からやはり皆懺悔して信じました。今は生駒さんと成田の不動さんを信じて居ます。

 將來は商賣をします。煙草が好きです。酒も少し。資本家はあまりよくもありません。尊敬する人とて誰もありません。 (六月十一日)


五十四番 手傳 卅九歳
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 三重縣北室郡大足町に生れました。海産物、林産物、物産は豐富です。木材は悉く植林したもので杉檜、樅、欅等です。海産は荒海の魚類一切です。父は七十五で生きてゐます母は五年前亡くなりました家業は菓子の小賣で名古屋の方から仕入れてビスケツト、アツプル、ドロツプス其他種々です。

 學校は高等小學校を卒業したのみです。其後家庭教師について中學の三年程度迄は勉強しましたから其れ丈の力はあるつもりです。高等卒業後は家業の手傳をして居ました。二十歳の頃東京に行って日比谷の市外鐵道本社に勤める事となりました。二十二の時は經理部の書記で日露戰爭に從軍しました。戰線には立ませんでした。病舍の手配其他色々な計算等で鐵砲の音も聞いた事はありません。臨冥と云ふ處迄行きましたが、脚氣の爲め中途で歸りました。國に歸つたら脚氣はよくなり故郷の山林事務所に製板の事務をとりました。東京では下谷の郵便局で小包の發送掛をして居た事もあります。大正三年に大阪に來て北區の大阪關西興信所の事務をとつて居た事もあります。件の興信所は訴訟の代理等をする處でしたが私は取立てをして居ました。名古屋に行つて新地三等郵便局に事務員をして居た事もあります大正九年九月再び大阪に來て共同宿泊所に止めて戴く事になりました。其頃は景氣がよくて平均三圓五十錢位になつて居ました今は何處と云ふ事も無く建築物の修繕等をして居るのですが儲けはありません。

 新聞は朝日新聞を見て居ます。讀書とては四書を調べて居ります。四書を讀むに至つた動機ですか、伯父がお寺で大學の講義等をして居た關係から漢文の本が好きです。相州鎌倉中學校長、田邊氏は非常な詩人ですが彼の作つた詩文を書いて利得を分けて居た事もあります。そう私が本氣で書を習ふた頃は二十前後の頃で其頃は壁でも柱でも白い處が少しでもあれば皆書きました腕でも身體でも白いから書きました。其樣に書いて居れば全く自由ですけれども今は時に筆を持つ事もありますが自由には書けません。一時は愛知縣の郡長をして居る伯父と相談して私の書を彼の知人を紹介して貰つて書き利益は半分分けして居た事もあります。神戸の鐵道局に義理の兄も居ますから人から引き立▼▼貰へば幾つも道はありますけれど此氣性で人の厄介になるのが嫌なのです。淺草の觀音樣の銘に面白い敍事の詩がありまして原則を超越して反對の方向から書いてありますので誰も讀み得た人がありませんでした。其物が私の手に渡りまして私も大部長い事考へましたが筆の勢其他から識別し遂に讀み得ました鮮人の作で餘程面白味のある詩ですから近頃は之を書いて分けたりします。

絆纏は全然失敗でしたから別に書の方で一旗擧げたいと思ひます。兄弟ですか八人で男五人の女三人です。社會運動も勞働運動もありません只身の不遇を憾むのみです。晉の韓信が漁夫の股かを潛つた故事に見て自ら慰めて居ます。 (六月十二日)


五十五番 煉瓦會社守衞 卅一歳
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 木津の品川白煉瓦支店で守衞をして居ります。職工は百七十名程居ます。昨年半分程解雇したと云ふ事で前期の配當は五分でしたが之も繰越の中からしたので大分窮境に陷つて居る樣子です。日給は一圓卅五錢と云ふ事で他に手當等はありません。賞與と云ふた處で部長級で十圓位と云へば無いと見た方がよいのです。十數年勤めた職工で僅か二圓位二圓を超える者は殆ど居りません。

 本籍は奈良縣志貴郡多武峰村です。有名なる淡山神社の所在地で何せ關西の日光と云はれる地ですから建物の結構は云ふもさらです。私の大きくなつたは天理教の丹波市村です。甘露臺ですか疊二疊敷程の處を穴にして掘り下げてあります。教師が此處が世界の眞中だと云ふ説をなし其處通る人の足は必ず立ち止まると云ふ樣な事を云ふて宣傳して歩いたものらしく拜みに行つた人も催眠術に掛つて居るので有難いと思ふ餘り其前に行くと立ちせまる樣な事になるらしいのです。

父は五十七母は五十六で健在です。兄弟は三人で私は三男です。長男は同文書院を出て漢口の日本棉花に勤めて居ます。二男は丹波市で藥屋を開き全國に渡つて配置賣藥をして居ます。

 中學校の四年で半途退學しました。柔道で後頭を打つてから記憶力が減退した爲めで一時先生の云ふ事は分つても歸つてから復習して見ると一向理解出來て居なかつたりしましたので皆は止めましたが私は止めました。學校を退學してから從兄が勤めて居た帶解町の木原と云ふ書籍店に奉公しました。洋書の表紙に書いてある文字等を讀む爲めです。此本屋は奈良縣中の國定教科書を一手にやつて居る店で奈良に支店があります。其處には一年程居ました。次は奈良ホテル等に出張所を置いて内外人を相手に書畫骨董の類を販賣して居る大野合資會社と云ふのに勤めました。之も英語が幾分出來た關係からで外人相手に商賣して居た譯です。書畫については一向見る眼を持ちません之は誰が畫いたのだから何百圓位之は誰のだから何十圓位と畫いた人間で金錢的價値を附けますので繪其物の價値等は趣味の無い事ですから知つた限りではありません。外人等には餘程よい價で賣ります。客には日本人も居ます。此處には六ヶ月も居ましたら使用人のストライキがありまして私も其仲間に入り解雇されました。

 明治四十年二月拜命して杉山警察署勤務の巡査となりました。杉山に於ける巡査生活ですか一年程駐在所に居ました。部内の警邏が主なる仕事で青年の飮酒や密淫賣を取締るのが主なる仕事です。選擧期に入れば村會でも郡曾でも買收が盛に行はれます。金を貰ふ者もありますが。誰か候補者に立つとなれば卑しい田舍者の事故己も己もと御手傳に行くので飮めや食へやと大騷ぎをします候補者に立つと田舍では澤山金が要ります。松山には三年半程居ました。大正四年一月代つて御所の警察署に勤めました。大正五年七月十二日迄居ました。別に變つた事もありませんでした。唯一つ殺人強盜を捕へて時の縣知事川口彦治氏から褒状貰ふた事があります強盜と云ふのは和歌山の男で泥棒を職業の樣にして居るので妻から愛想づかしをされ妻は其後他家に嫁し子迄も持つ樣な事になつたらしいのです。方々泥棒して歸つて見たら此有樣故其家に入つて亭主を殺し金品を奪つて逃げたのです。強盜常習の男で御所の村に來掛つたは五年二月或夜。夜中見張つてもよい餌物もなし夜も次第に明け離れやうと云ふ頃奴さん町端れの道標を見て何時迄も立つて居りますから風體から見て怪しき者と認め誰何しますと件の男は矢庭に走り出すので之を追跡し三木と云ふ男と共同して遂に逮捕しました。相手は別に兇器を持つては居ませんでした。袋の中に錐、鋸、ナイフ等入れてありましたが之を出して抵抗した譯でもありません。山道の涯の處で組みついて其儘沼の中にころがり落ち沼の中で格鬪して居ましたが連れの三木と云ふ男が馳せつけ二人で壓へました。五尺七寸程の大男で力も可なりありました。幸柔道が出來ましたから捕へ得たのです。

 五年十一月九日三重縣の防疫官を拜命しました。四日市の東洋紡績にペストが發生したのです。印度から來た棉の中に有菌鼠が居たので其から起つたのです。防疫官は我々三十餘名一時は一千名以上の人夫を使役して補鼠補蚤大いに努めました先づ二軒の家にペストが登生しますと其家の周國全體にトタンの圍ひを作ります。數百名の補鼠夫を入れて鼠を補へるのですが普通の鼠は主として屋根瓦の間に棲息して居ります故一枚一枚屋根の瓦を返して行きます巣があれば巣をとる、其邊に蚤が居たら蚤もとる、藥品を散布すると云ふ樣にして一方の方から捕り進みます。鼠は地下にも居ます藏の中の土間から深く地下に穴を作つて掘つて見たら無數の鼠族が居た樣な場合も幾回もありました。人夫が捕つた鼠は一匹二十錢宛で人夫から買ひ上げる事としましたから人夫は死物狂ひで遣りました。屋根で瓦を剥いで居た男が鼠が飛んで土地に下りた時等自分も續いて飛び下りて捕へた事等もありました。鼠取りの商賣人は棒で叩きもし主として手で握つて地上に投げつけます。蚤ではケオピスと云ふ種類が最も危險で私等が見れば直ぐ分ります。四方から鼠を追ひ集めて其處に又トタンの圍ひをして誘つて其中に入れ置き一度に征伐します。鼠だつて數種類あり種類によつて生活状態を異にして居ります。二年半して東奔西走大抵鼠を捕りました。でも鼠等と云ふて非常に播殖力が強いものですから翌年位から元通りになります。有菌鼠は千頭以上ありました。ペストが人間に傳染するするのは鼠から直接來るのではなくてケオピス其他の蚤が鼠を吸つた口で人間を刺すから起るのです。ペストに掛つた者の内六十四名は死にましたが、他に數名は手術の結果生きた者があります。ペストにも種類がある樣ですが此時のは腺ペストと稱する種類で腋下でも内股でも腺と云ふ腺は腫れ太りますので早速之を手術して取り去るのです。今の處其れより他に方法が見出せない樣です。現に四人でも五人でも其方法によつて助かつた者が居るのですから之れでも治療の一方法でなければならません。

 ペストはモルモツトにも兎にも傳染します。猫は有菌鼠を食ふても平氣で居ります。馬等は身體が餘り大きいから傳染しません。ペストも家が大きくつて勝手が違ふ爲棲息し得ないものを考へます。大正七年五月卅一日防疫の事務が七分通り結末を見たので七分の人が解雇せられ、私は其年の六月三日大津警察の巡査を拜命しました。堅田分署の勤務を命せられて居ました。堅田の浮御堂ですか石橋が架けられてあります。橋の袂にも宿屋兼料理屋が一軒ありますし其他にも二三軒の料理屋のある位であつさりしたものです。二月廿七日速水警察に代りました。戸數百五十戸程の小村で琵琶湖の魚を捕るのが彼等の大部分の者の家業です。魚は鯉、鮒、鮎、マルタ、鱒一切の川魚は居ります。

 此樣にして轉々として巡査生活をして歩いて居た間にも元來巡査と云へ觸ばれば事が面倒になると云ふ考から誰も近よらない樣な方針を取つて居ますのでいくら惡い事をしても何とも云ふ人が無いのをよい事に隨分と婦人に關係した事でも其他でも亂暴な事をしました。素行が治まらないのが私の缺點です

柔道を少し遣りますので業は出足拂と腰車ですが之れでいくらも惡い事をしました。何回も何回も呼びつけられて訊問されました。不思議に罪には落ちませんでしたが危險な商賣をしたものです。

 其外或貿易商の處にも居ましたし、奈良縣廳に勤めた事もあります。本年一月七日大阪に來て共同宿泊所に泊めて戴く事となり二月五日から白煉瓦の守衞をしてゐます。此處の紹介所から紹介して戴きましたから此虞に御厄介になる中はと思ふて心棒して居る樣な事でよい處が見つかったならば其處に代ります。

 身體は健康です。新聞は毎日新聞です。雜誌は中央公論水彩畫は得意です。玉突き、弓術、ベース、テニス、柔道等娯樂は仲々多うございます。テニスは今も盛にして居ります。宗教は信じません。將來は是非商賣に代る積りです。漢口の大きな兄が二三日前歸つて今郷里に居る樣な話ですから近日中に歸郷して支那の方に連れて行つて貰ひたいと思ふてゐます。

 一時は巡査等して勞働運動等は取締らねばならぬ位置に置かれて居たのですけれども今勞働者と共に資本家の爲に酷使せられて居れば勞働運動は大いに宜しいと考へます。勞働運動等とは何の事か等と云ふ精しい事は何も分りません。歴史的の人物では別に有難いと思ふ人もありませんけれども同じ丹波市の人で若い時は私と同じに可なり惡い事もした人ですが梅田芳松と云ふ人、此人には物質的に色々補助も願つてゐますし精神的にも御助言等色々戴いて居るので眞に有難い人だと思ひます。 (六月十二日)


五十六番 ステンドグラス職工 廿五歳
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 カフェー等の窓玻璃でも今度の新市廳舍の議事堂の天井に應用して光線の調節をしたにしても皆此ステンドグラスを用ひたものです。光線の感情に及ぼす影響等の研究は外國では可なり出來て居ますが日本では少しも出來て居ません。只窓を美しくすると云ふ意味で類似色とか反對色とかを適當に鹽梅して景氣をよくする位の程度ですが之にしても圖案の力が無いと出來ない仕事で私共は只皆の指揮に從つて硝子を切つたり並べたりして居るのです。或一つの色を出さうとすれば少なくとも四枚以上の色硝子を重ねなければ出ません。洋式の建築が盛になるにつれて此仕事は將來のある仕事です。只現在では色硝子は日本に出來るものは粗惡で使用に堪へませんから悉く米國等から輸入せられて居る樣な有樣で萬事幼稚なものです。

 故郷は滋賀縣海津村です。御説の通り滋賀縣は痩せた土地で物産も無く名物とても何もありません。母は五十六で達者で居ますが父は私が廿三の時に無くなりました。父が在世の頃は石炭、酒屋、引船等手廣く行つて居ました。父は心臟病で亡くなりました。神經系統にも故障があつて死ぬ頃は何も分からなくなつて居ました。兄弟は三人兄姉と私と云ふ順序だつたのですが、昨年兄が南洋に客死した爲め家の事一切は私がせねばならぬ事になつて居ます。姉は養子を貰つて別家と云ふ樣な事になつて京都に居ます。學校は中學卒業です。

 大正九年十一月大阪に出て來ました。暫く京都の義兄の處に厄介になつて居ました。兄もゆつくり適當な職業を探すが宜からうと云ふて居ましたけれど獨力で遣れると云ふ自信がありましたので大阪に出て來ました。自信ですか今日一日を間違ひ無く行りさへすれば當然立派な明日が開展し出されて來ると云ふ自信です。尤も嚴密な意味から云ふた今日でなければならぬは勿論の事で其れには生活に對する正しい批判が必要な譯です。自分自身を欺いての一日がある爲めでせう。今日迄既に六箇月にもなりますが未だに此樣な次第でチョイ/\自信が裏切られる樣な點が無いでもありません。大阪に來てはあの住吉街道の大阪職業紹介所に行つて頼みましたら幸此仕事があつたので以後今日迄續いて居ります。日給は始めから一圓五十錢、腕のある人は三圓五圓と取つて居ます。私は腕がありませんから一圓五十錢で滿足して居ります。此處の宿泊所には友人に教へられて來ました。

 中學校時代には運動が好きで何でも致しました。ベース、テニス、柔道、撃劍、ボート、其内撃劍は一年しか致しません。柔道は三年。ボートが一番好きで常に四番を持つて居ました。琵琶湖での競漕ですか、幾回もメタルを取りました。私は勝負事は嫌ひな方で、嫌ひな理由は餘りに勝ちたい方なので競爭に當つて極端に興奮する事が嫌ひなのです。競爭に當つて夢中になる事なら此限りでありません。ボートが即ち其れで之れのみは上手です。好きな學課とて國漢文でした。美文等を好んで讀みましたが小説は嫌ひです。私の思想は遲れて居るかも知れません萬事成功すると云ふ事が主眼で絶對に負けたくありません。人は私共を目して勞働者とするかも知れませんが私自身は資本家の積りです。資本が無いから資本家ではないにしても資本勞働の外に超然たる處があるとでも云ふのですかね。何うせ一切の者を踏みつけて權力者となるか巨萬の富を得るかの二つに一つです。其れにしては其日其日を安らけく送ると云ふ主義が矛盾すると云ふのですか、成功の早道と思ふて遣つて居ります。

森村市左衞門の言に、人にovervalueされる程危險な事が無いとありましたが、八分位に買つて貰ふて枚を▼▼んで努力して居る處は最も見事なものです。但し之れが近い徑だと思ふての事で明日になればどの樣な事になるものやら之で成功覺束なかつたなら惡い事でも何でも行ります。惡いと云ふ意味にも二樣あつて一は法律に觸れる事他は不道徳の事と二つあるのです。法律に觸れるは之はしない豫算ですが不道徳な事ならドシ/\行つて是非成功します。先輩を踏みつけて進むと云ふ事を云ふ者もありますが先づ弱者を踏みつける事をするのですね。

 將來は商業の方に代ります。現在の仕事も單に拔術を練ると云ふ外に客に接して人の感情を自由に弄ぶ事等が出來ますから其方面の修養になるのです。國に歸つて何處かの養子も結構ですね。是非よい口がありましたら。駄目ですよ。養子なんて、時々考へますね年のせいでせう。

 煙草は好きです。酒は嫌いです。甘い物が好きです。其外私の全部は平凡の二字に盡されて居ませう宗教は眞宗ですが何も分りません。
 勞働運動等は結構な事で文句を云ふのは尤もな事と思ひます。人物としては豐臣秀吉の遣り口が傳記等に殘つて居る樣にキビ/\して居なかつたにしても見事なものであった樣です。歴史的人物としては尊敬するのは彼で他は別にありません。 (六月二十三日)


五十七番 市役所土木課人夫 廿二歳
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 市役所の西部出張所に勤めて居ます。今日は江戸堀北通五丁目西北橋の袂を修繕しました橋梁部でありますから土木の方は土木の方で道路に關係した事のみをします。父は四十七母は四十八です。

 私は長男です。下に弟が三人十八、十二、十と云ふ順序になります。故郷は徳島縣阿波郡柿島村です。産物としては藍に砂糖で、砂糖は小規模に行つて居ますから上等の品は取れません。皆赤砂糖ばかりです。學校は高等を卒業しました。

 卒業すると直ぐ何か職に就かふと思ふて大阪に出て來ました。知人の世話で土佐堀の某機械店に入り帳面をつけたり、見積を作つたりして居ました。外交員の者で威張る者が居て私の頭を撲りつけますので大正七年十二月つまらないと思ふて出ました。惡い事は私の方が寧ろ惡い處があるので云はゞ頑固なのです。何でも云ふ事を聞いてやらないのです。此店に居た時に何かハイカラな事が覺▼▼て見たいと思ふて土佐堀の青年曾で英語を習ひました。二三箇月通つただけです。

 店を止めてから一年程郷里に歸つて家業の手傳をして居ました。一箇年して又出て來ました。宿とては直接此處に來ましたから何處にも泊りません。此處の紹介で市役所の土木部の人夫となりました日に一圓五十錢月には四十五圓平均位となります。

 新聞は大阪毎日を讀んで居ます。雜誌は新青年と云ふ奴をとつて居ますが海外發展等の男らしい事のみ書いてある雜誌です。趣味は何もありません、自己流に習字をして居ます。其れと散歩が好きで休日には大抵郊外等の名所を尋ねます。將來の方針は何も立つて居ません。煙草は嫌ひです酒は少し呑みます。

 勞働運動には贊成で勞働者が勝つて呉れゝばよいと思ふて居ます。大石良雄の武士道的な處が好きです。 (六月二十三日)


五十八番 仲仕 廿四歳
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 木津の青物市場に出て居ます。毎日行く處は定まつてゐます。東天下茶屋の青物市場の中に店を出して居る人、何と云ふ店か知りません。そんな名前等問ひやしません。歸つて來てから又色々な處に車を牽いて行きます。東天下茶屋に行く樣になつてから、三月位にはなります。

 生國は三重縣鈴鹿郡神邊村です。父は甘五の時死にました。母は十の時に亡くなりました。男四人で私が一番小さいのです。學校は村の尋常小學校を卒業しました。廿迄は家業(農業)の手傳をして居ました。廿の年に父と二人で關と云ふ町で炭屋を初めました。炭は皆其邊の山で燒いたのです。固い炭は高いし軟い炭は安い。固い炭は材料其物も違ひます。樫とか椿とかです。

 廿五の時父が死んだので出稼ぎに出ました。長崎で精神病院の番人をして居ました。氣狂ひばかりです。荒つぽいのは困ります。氣狂ひにも癖があるもので、或者等は朝から晩迄寢て許り居て眼を醒まして御飯を喰べて亦寢てゐます。何かしら朝から晩まで一人で物云ふて居るのも居ます。歌を唱ふのも居ます。其後此邊を本據にして何でもしました。大阪に來てからは天滿や朝日橋邊で毎日勞働してゐました。木津市場には三箇月程前に來ました。

 身體は丈夫です。新聞は讀みません。本も讀みません。話は時々聞きに行きます。宗教は大師樣。後々は八百屋にならうと思ひます。煙草は嗜きです。酒は二合程飮みます。喰べ物は何でも喰べます。 (六月二十四日)


五十九番 手傳 廿六歳
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 阿部野の清水と云ふ親方の處で働いて居ます。手傳專▼▼の親方で若い衆は廿人も居ませう。賃銀は人によつて違ひますが二十錢と違ひません。私は二圓三十錢になつて居ます。本籍は阿波の國美馬郡半田奧山村です。村の産物は麥で炭も産物と云ふ事になつてゐます。慥しか尋常六年の時でした香川縣四條村に轉りました。此村も平凡な農村で米麥等が物産です。私は四條村から同郡の榎内村高等小學校と云ふに通つて卒業しました。其後一家全體大阪に引越して來て西成郡千舟村に住んでゐました。徴兵の方の關係は第一乙種ですから時々點呼を受けるのみです。

 數年前妹が故郷の阿波に嫁入りましたので父も手傳の意味で其家に行つて居ます。私は其後は自活の道を講ぜねばなりませんから土方や手傳等をして世を渡つて居ます。最初は坂町の今久と云ふに使はれて居ました。次ぎは大國町の藤ヤン。此處には若衆が三人程しか居ませんでした。寄場に行く時は天滿に行きました。何處もよい處ばかりでした。景氣のよい時には親分から仕事を分けて貰つて仲間の者を使つて之を行ると云ふ樣にして日には七圓にも八圓にもなりました。

 新聞は毎日です。小説は借りて來ても一週間も投げて置く樣な事です。芝居や話は時々聞きに行きます。宗教は眞言宗ですが、お經は知りません。煙草は嗜き酒は飮みません。勞働運動と聞けば勞働者が是非勝てばよいと思ふて案じてゐます。 (六月二十四日)


六十番 手傳 卅二歳
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 市役所の此の南の寄場(今宮勞働紹介所)から出て手傳をして居ます。土木でも建築でも大抵の事をします一日出れば四五十錢にはなります。此頃は景氣がよくなつて來たので都合が宜しうございます。故郷は三重縣安濃郡藤水村です。家業はやはり百姓をして居ます。父は六十一歳母は六十二歳で今に達者で居ります。九人兄妹で男六人の女四人私の兄に當るのが一人無くなりました。今生きて居る中では私が二番目で兄が家督相續して居ます。

 學校は高等二年を卒業して居ます。四年前に親や兄と意見が合はないで家出しました。其外にも少し都合の惡い事があるはありました。十月頃でした東京深川に友達が居ましたので其れを頼つて東京に行き其處に落ちつきました。件の友人はやはり手傳をして居ましたから私も手傳をする樣になつたのです。東京と大阪のと仕事の違ひは手傳の方では別にありません。只東京の親方はえらうガミガミ叱る樣な事はありませんけれど大阪の親方はガミガミ叱ります。私共は叱られる樣な事は何とも思ふては居ませんが、氣持ちのよいものではありません。其れで仕事は何れかと云へば大阪の方が反つてよく働きます。東京も大阪もよし惡しですね。

一年程して信州の上諏訪に行つて養蠶をしました。蠶種の方を行つて居る家でして男女混せて二十人許り居ました。蠶種は自分の家で作つて卵を産んで死んだ母蛾を係の檢査官に檢鏡して貰ひ毒があつたら其蛾の生んだ卵は落第と云ふ事になり善かつたなら及第と云ふ事になると云つた樣な具合なものです。其時は喰べて外に一圓五拾錢でした。多い樣でもありますけれど三眠が過ぎれば私共は睡る暇さへない樣に急がはしいのですから結構な仕事ではありません。夏蠶がすんでから大正七年九月頃大阪に來ました。

大阪には友人もありませんので、今宮のガードの下の第一大和屋に三日程泊りました。よくも惡くもない普通の下宿屋です。其れから此處によい處があると教へられて來て泊めて戴いて居ります。當時は未だ勞働紹介の方はありませんでしたが、間も無く今の紹介所が出來たのでズツと御厄介になつて居ます。之れも景氣の惡い時は困つた商賣でしたが然し近頃は景氣が段々よくなつて來ましたから大いにやらねばなりません。

 丈夫で一日だつて病氣でねた樣な事はありません。氣分の惡い樣な事もありません。新聞は仕事に行く途中で毎日を買つて讀みます。本や雜誌は見る暇がありません。娯樂や運動其樣な暇は全くありませんで暇な時にはブラ▼/\▼歩く位が關の山です。宗教の方は眞宗です。小さな時にはよく寺に行つたものですけれども今は寺に行く處の話ではありません。お經ですかそんなもの知りません。

 將來は一儲けして置いて八百屋を始めます。八百屋と云つて最初は籠に入れて背負て歩く考へです。煙草は嗜きです。酒は一合か二合ですね。喰べ物では特に之れと云ふて嗜きなものはありません。世の中の事は不平だの何のと云ふのは惡い考へだと思ひます。どうでも今迄でに定められて居る規則で成功せん事にはなりません。其規則を改めて自分等に都合のよい規則を作つて勝負をつける工夫をするんではあまり勝手と云ふものではないでせうか。組合にも何も入りません。 (六月二十五日)