福祉相談部門報告 人の死
 

福祉相談部門が活動を開始した2000年の3月から現在2年6ヶ月。生活保護受給(居宅保護)に至った人は500人を超えた。うち、亡くなった人は22人。年金で自活していたKさんと、扶養義務家族の関係で保護受給に至らなかったMさん(会報9号参照)、共に深い関わりをもった彼らを加えると、計24人。すべて男性。

これまで福祉相談部門を通じて居宅での生活をしていた方のうち、亡くなった方の死亡時の年令と死因の表を掲げる。

死亡時の年令の平均が66.4才。モード(=頻度が最も高い数値)も66才。「若すぎる」と誰もが感じるだろう。例えば、厚生労働省「平成13年度簡易生命表」によれば、60歳の平均余命は21.72歳、65歳の平均余命は17.78才である。

よく当事者や支援者の間で「保護にかかって1年目が鬼門」と言われるが、保護申請してから亡くなるまでの月数は平均9.1ヶ月(この数値は保護にかかっていなかったKさん・Mさんを除いて、母数22人として計算、22人のうち20人がそれまで野宿生活・小屋での生活を強いられていた)で、1年より短い。【註1】

因みに24人中23人の前職は釜ヶ崎を拠点とした建築日雇い労働。残る一人も京都のガラス工場の寮での日雇いだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死に場所 「死に場所」のパーセンテージをみると、「病院」が62.5%・「アパート内」が25.0%・その他が12.5%ということになる。必ずしも「病院で死ぬ」ことが幸福とはいえないが、誰にも看取られずにアパートで死んでいった「孤独死」が6人。
 

酒害 事故死の多くは飲酒上のものと思われる。交通事故・風呂場で心臓発作・路上で転倒等が死に至ることになった人たちは、目撃証言によれば、直前にかなり深酒をしていた。また自室で「孤独死」したうちの1人は死因は「虚血性心不全」とあるが、これも大量飲酒の結果。精神症状・禁断症状などを経験してはいなかったとはいえ、彼らのほとんどが広義のアルコール依存症者であっただろうと推測される。アルコールの害についての啓蒙と、何より「酒に代る生きがいの創出」の必要性をつくづく感じる。
 

自殺 2人が自殺した。私たちは支援者としての未熟を憾む。【註2】
 

病死病院で亡くなった人の中には、適切な治療から「疎外」されて、死期を早めてしまったと思わざるを得ない例も。例えば、医師とのコミュニケーションがうまくいかず、治療中断のため手遅れになった人たち。【註3】これらは「病院嫌い」「本人のわがまま・こらえ性のなさ」「コミュニケーション能力の欠如」などと、個人の資質や性格のみに責任を負わす分けにはいかない。「インフォームド・コンセント」がどうやって実現できるのか、という課題を差し出す。

 望ましい治療関係を取り結ぶための支援=医師と患者の間のパイプ役に人、医療に関する知識をもった専門のボランティアの必要性を感じる。

 

当人にとっての死(あるいは生)が、満足行くものだったのかどうかという点について、残された者が本当のところを知る由もない。しかし、多くの場合、「もっと別の死に方(あるいは生き方)がありえたかもしれない」と思わざるを得ないことばかりだ。そんなことを思うのは生き残っている者の不遜か、なぜなら、死んでいった人はみな精一杯生きたのは確か、「これでいいのだ」と思いたい・思えない。
 

【註1】Nさんは相談にきた時点で自分が末期の肺ガンで余命幾ばくもないことを知っていた。保護申請受理まで時間がかかったのは、かなりの旧式ではあるが自動車という「資産」があったから。彼は自らダットサンを駆り和歌山までいって廃車処理をした。その2日後に様態急変。

【註2】Eさんは、ギャンブルへの嗜癖があり、今回2度目の生保の生活だった。再挑戦の意気込みと支援者の鼓舞・励ましが、かえって彼を追い詰める結果になってしまったのか。Iさんは統合失調症(精神分裂病)を患っていたが、最期の日々はうつ状態に陥り通院が滞っていた。その際に適切な介入が出来なかった。

【註3】医療者との仲介のボランティアの必要性を感じさせるケース2例

@物静かだがしっかりもののGさん「 2001年の春頃から頚部右側に腫れ物が。最初は痛みも無いので放っておいたらどんどん大きくなった。近所の病院にいったら、「悪性腫瘍の疑い」ということで大きな病院を紹介される。切除するには遅すぎ、放射線治療に望みを託すことになる。その後ガン組織は一旦小さくなったのだが、その後、医師による治療の説明がうまくいかず、本人は通院をやめてしまう。放射線照射を中断すればガンはそれまで以上に悪化する。夏には腫瘍が喉を圧迫、ものが食べられない状態になった。スタッフとともに病院に再診した時、主治医は「もう、うちでは手に負えません。地域の病院で栄養の点滴を受けてください」といった。それから3ヶ月してGさんは亡くなった。

AXさんは確かに病院嫌いだった。2001年夏ごろから下腹部の痛み・下痢がひどくなる。病院受診すると「大腸がん」とのことで、切除の手術をする。まだ傷口がふさがりきらないうちに退院した。その後も通院治療・抗がん剤服用をするが、いつしか病院から足が遠のく。2002年の春先から再び体調悪化。数回、救急病院へ搬送される。肝臓や肺に新たなガンが発見される。2002年の9月に亡くなった。最初の退院後の通院・抗がん剤の服用を続けていれば、と、人懐っこい笑顔の遺影を見ながら思う。